5-9 運慶の仏像が「運慶作」と認められるまで

願成就院内にある北条時政の墓(供養塔)
願成就院内にある北条時政の墓(供養塔)

 

ゆいまくん 不動明王像と毘沙門天像の納入品だけど、像内から取り出されたのは、江戸時代後期の修理の時だったんだ。ということは、願成就院の仏像が運慶の作とわかる材料は古くからあったということだね。 ところが、実際に運慶の作と広く認められたのは、20世紀も後半になってからだったんだよ。

百花さん え? 北条時政の依頼で運慶によってつくられた仏像だってこと、以前はわかっていなかったの?

ゆいまくん そうなんだ。その背景としてはね、運慶が歴史上あまりにも名高い仏師として語りつがれていったことにあるんだ。

百花さん …? 運慶の名は、伝説的な大仏師として伝えられていったのね。でも、そのことは願成就院の仏像が運慶作ってわからなかったことと関係しているの?

ゆいまくん 各地域に伝わるさまざまな古仏について、それを守る人たちの間で、これは運慶作の尊い像だ、そうに違いないなど、確かな裏付けもないままに由来が付け加えらていくということがあったんだ。
 その一方で、本当に運慶作であることが銘文などによって明らかな像は、20世紀前半の段階では6体にとどまっていた *。百花さんが修学旅行で見た東大寺南大門の金剛力士像のそのうちの1つだよ。当時の研究者は、わずか数体の運慶真作を基準として、全国に数多く存在する「伝運慶作」の仏像について、本当に運慶作である可能性があるのかないのかを判定していかなければならなかったんだ。
 願成就院の阿弥陀如来像や不動明王像、童子像、毘沙門天像は、他の追随を許さないほどの迫力があって、本当に偉大な造形だよね。しかし、それは当時判明していた運慶真作の仏像と比較してもあまりにも飛び抜けているので、確定している運慶作仏像とどうつながっているのか、あるいはつながるものではないのか、研究者たちを大いに悩ませ、判断を留保させることになってしまったんだ **。

百花さん でもさ、納入品の木札に仏師名として運慶って確かに書いてあるんだから、素直に受けとめて、そこから議論を深めていくことだってできたんじゃないの。どうしてそうしなかったのかな。不思議~。

ゆいまくん 不動明王像と毘沙門天像から木札が取り出されたときの記録が不十分だったこともあって(実際、どちらが不動明王の分なのか、毘沙門天像に入っていたものなのか、わからなくなってしまっている)、納入品はその文面から確かに運慶の仏像のものだが、像そのものはいずれかの時代に失われてしまい、伝来する仏像は運慶作ではないといった意見もあったんだ。

百花さん わーっ、普通そこまで疑う? 性格悪過ぎでしょ。

ゆいまくん 学者っていうのは、まず疑うっていうのが基本だからね。そういうものなんだよ。

百花さん でも、最後には運慶作で間違いないって、学者をはじめ、多くの人たちに受け入れられていったんだよね。それには、何かきっかけがあったの?

ゆいまくん 願成就院の5体の仏像が運慶作と広く認められたのには、別のお寺の仏像が深くかかわっているんだ。
 神奈川県横須賀市に浄楽寺というお寺があって、そこにも運慶作の仏像が伝わっているんだ。阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像だから、願成就院の仏像とほぼ同じ組み合わせで、こちらもかつては運慶作とは考えられていなかった。願成就院と似た状況だね。
 その浄楽寺の仏像から、1959年に納入品の木札が発見されて、浄楽寺の仏像は運慶作であるとわかり、そこから波及して、願成就院の仏像についても運慶作と考えるべきであるとの認識が広がっていったんだ。
 ちなみに、浄楽寺の仏像から発見された木札には1189年の年が書かれていて、願成就院の仏像の少しあとにつくられたものとわかっているんだ ***。つくらせたのは、鎌倉幕府初期の有力御家人である和田義盛という武将なんだよ。

百花さん じゃあ、北条氏が自分の寺をつくり、奈良の仏師に仏像をつくらせると聞いて、対抗心を燃やして運慶に依頼したのかもね。浄楽寺の仏像も見てみたいなあ ****。

ゆいまくん 同じ運慶作、年代も願成就院の仏像に近いから、共通点も多いけど、印相や体勢には違いもあって、なかなか興味深いんだよ。
 それはともかく、1977年には願成就院の二童子の像からも同様の木札が取り出されて、もはや願成就院の仏像が運慶作であることに疑いをはさむ余地はなくなったんだ。

百花さん 願成就院の仏像を見て、ほんとうに圧倒されたよ。とてもすごかった。「運慶の仏像、最高っ!」って思ったよ。でも、この仏像が運慶作と考えられていない時代もあったのね。ということは、今の私たちが思い浮かべる運慶と、以前の人たちが考えていた運慶像は、かなり違っていたっていうことだよね。

ゆいまくん 願成就院、それに浄楽寺の仏像が運慶作ってわかったあと、運慶作の仏像、運慶作と考えてまず間違いないと推定される仏像が次々と見つかり、今や現存する運慶仏は30体以上にもなっているんだ。運慶とその仏像、さらに鎌倉時代の仏像彫刻全体に関する研究は、ここ半世紀あまりの間で劇的と言っていいほどに進んだんだ。その研究の進展にとってとても大きな契機となったのが、この願成就院の像が運慶作と確認されたことにあったわけだね。運慶がこの力強い造形を打ち出したことで、平安時代のスタンダードは飛び越えられ、新時代の彫刻の扉は開かれたという共通の認識ができあがって、それをもとに研究が活発化していったということだね。

百花さん 運慶とその仏像についての研究は、これからもまだまだ続いていくんだろうね。数十年前と現在とで運慶像が変わってきたように、将来、また運慶の別の面が見えてきたりすることもあるのかもね。
 ところで、北条時政はその後どうなったの?

ゆいまくん 頼朝の死後、時政は次々とライバルを排除し、名実ともに幕府の最有力御家人となっていったんだ。しかし、1205年、時政は孫にあたる3代将軍源実朝を廃して、さらに都合のよい身内を将軍に立てようと画策したものの、失敗に終わる。結局、自分の子どもである政子、義時によって権力の座を追われ、伊豆のこの地へと追放されてしまうんだ。亡くなったのは1215年、78歳だった。当時としては長命だけど、その晩年はたぶん寂しいものだったと思うよ。

百花さん じゃあ、時政は最後の10年間、かつて自分が運慶につくらせて、往生を願った仏像のもとに暮らしたんだね。
 頼朝を押し立てて幕府の開設に力を尽くしたことや、朝廷との難しい交渉をこなしたこと、そして運慶の力量を信じて仏像制作を任せたことを誇らしく思い返したり、他の御家人たちとの権力闘争で多くの血を流したことを悔いたりしたのかな。きっと、つくらせた時に手を合わせたのとはまた違った深い祈りの心で、仏さまの前に座る日々を送ったんだろうね。

 


(注)
* 20世紀前半までに運慶作と確定していた仏像は、次の通り。奈良の円成寺(えんじょうじ)の大日如来像(1176年)、東大寺南大門の金剛力士像(1203年)、興福寺北円堂の弥勒如来像、無著・世親(むじゃく・せしん)像(1212年)。

** 円成寺の大日如来像は、運慶初期の傑作。銘文から父、康慶が大仏師であり、そのもとで制作にあたったと考えられている。この像は端正で洗練された作風であり、願成就院の像の迫力ある造形との連続性を読み取ることが難しく、願成就院の仏像を運慶作とすることが躊躇されたのだと思われる。

*** 願成就院と浄楽寺の仏像納入品の木札は、縦長の板であること、宝篋印陀羅尼が書かれていること、日付、願主、仏師、執筆者の名が裏面に書かれていることが共通する。ただし、木札の形状をはじめ、記述面にも異なる点は多々ある。例えば、浄楽寺の木札には「運慶は小仏師10人を率いた」とあり、こうした情報は願成就院の木札にはない。一方、願成就院の木札には「文治2年(1186年)5月3日につくりはじめた」とあるが、浄楽寺の木札では「文治5年(1189年)3月20日」とあるばかりで、それが造像開始日であるとは明記されない。
 浄楽寺の阿弥陀如来像では、願成就院阿弥陀如来像にはなかった像内の腰あたりにくり残しをつくって納入品を保ちやすくする工夫があり、願成就院像よりあとにつくられたと考えられる。おそらく、浄楽寺の木札の「文治5年3月20日」も造像開始日であり、願成就院の例から推定してそれから1~3年ののち完成したのではないだろうか。

**** 浄楽寺の運慶作仏像は収蔵庫に安置され、3月、10月にそれぞれ公開日が1日ずつ設けられているほか、それ以外の日も予約によって拝観できる。ただし、納入品は拝観できない。

 

横須賀市にある浄楽寺(運慶仏は裏手の収蔵庫に安置されている)
横須賀市にある浄楽寺(運慶仏は裏手の収蔵庫に安置されている)