5-8 木札の裏面に書かれた3人の関係を考えてみる

 

ゆいまくん 木札の表は、舎利がこめられ、宝篋印陀羅尼が書かれて、本来の信仰のための内容、一方、裏面は日付や関係者の名前といった仏像に関する情報が書き添えられたものということになるね。おかげで、願成就院の仏像が、いつ、誰によってつくられたのかがわかるわけだから、とても重要な記述だよね。
 日付だけど、文治2年(1186年)5月3日に仏像をつくりはじめたと書かれている。4枚の木札のすべてが同じ日付となっているのは、この日に造像はじめの儀式が行われたということなんだろうね。

百花さん じゃあ、完成したのはいつ?

ゆいまくん それは、この木札からはわからない。鎌倉幕府の正式な記録である『吾妻鏡』には、願成就院の落慶は1189年6月6日とあるから、仏像はそれまでには完成して、堂に安置されていたのだと思うよ *。

百花さん 日にちの下には、運慶と時政の名前が書かれていて、その下にも何か書いてあるのね。

ゆいまくん 運慶と時政の名前が並ぶ、その下は「執筆 南無観音」と書いてあるんだ。「南無観音」は祈りの言葉みたいだけど、これ、人名なんだ。執筆とあるから、裏面はもちろん、表の陀羅尼の梵字もこの人が書いたものというわけだね。

百花さん 仏の魂としてこめられる聖なる言葉、梵字を書いた人ということは、仏教に精通した人よね。

ゆいまくん 仏教や仏像制作の作法について詳しく知っている僧侶であることは確かだと思うけど、残念ながら、どんな人物かはわかっていないんだ **。

百花さん 運慶と時政、それぞれ名前の上に書かれている言葉は何? 肩書きみたいなものかな。

ゆいまくん 「巧師(こうし)勾当(こうとう)運慶」って書かれているね。
 「巧師」は仏師の美称として使った言葉なんだろうね。すぐれた技を持つ仏師というような意味だと思うよ。「勾当」は寺院内で事務など実務を専門にとり行う役職で、これが当時の運慶の肩書きだったらしい。仏師である運慶が事務仕事をしていたとは思えないけど、興福寺内で称号のように与えられていたものなんじゃないかな。運慶はまだ法眼、法橋といった僧綱位をもたないので、こうした役職名のようなものを書くことにしたのだろうね。
 時政の方だけど、「檀越(だんおつ)平朝臣(たいらのあそん)時政」とある。
 「檀越」は、願成就院をつくり、仏像をつくらせた人であることを示し、「平」は北条氏の本来の姓(せい、「北条」というのは、家名として用いた私称であり、正式な文書では平を名乗っていた)、「朝臣」というのはカバネで、現在ではこういうものはないからわかりにくいかもしれないけど、一定以上の位をもった人物であることを示す称号のようなものなんだ ***。

百花さん 運慶も時政も、檀越として、仏師として、それぞれ立派な人だよーって、ちょっとよそ行きっぽく書かれているのね。
 でもこれ、運慶と時政が同格って感じで書かれているね。っていうか、見ようによっては運慶の方が上みたいじゃないの。縦書きの文章は右から書くわけだから、運慶の名前が時政に先立って書かれているってことだよね。

ゆいまくん うーん、右に書いてある方が上位というのはどうかな。鎌倉幕府が発行した文書には、日付に近いところに名前がある人物の方が位が低く、左に行くに従って位が高くなっているものもあるんだ。日付との距離でいえば、運慶、時政はまったく同格の書き方といえるよね。
 それにしても、時政は頼朝の義父で、鎌倉幕府の設立に大いに尽力し、北条の一族を率いて、氏寺の創建を果たした人物。それに対して運慶は、今では仏像界のエースで、もしかしたら北条時政より有名かもしれないけど、当時としては父の康慶に従う一仏師にすぎない立場だから、それが同格のように書かれているのは、ちょっと不思議にも思えるよね。
 そこで、もう1名、その下に書いてある執筆者の南無観音を加えて考えてみよう。
 南無観音の名は下に書かれているから、それこそ下位のように見えるけれど、書いた本人としてへりくだって、時政と運慶を立てているのかもしれない。もしかしたら、時政、運慶、南無観音の3人は、仏像をつくるという意味で同格として位置づいているんじゃないかな。 

百花さん たしかに、南無観音が聖なる言葉を納入品に書くことで、仏像が真の仏となったと考えれば、南無観音の力はものすごいということになるし、そもそも時政がいなければ、願成就院の仏像がつくられることはなくて、実際にこの生気あふれる仏像をつくりだしたのは運慶。ってことは、この3人は異なる立場ではあるけど、それぞれ自分の得意とする力を出し合い、共に尽くしたということでは、仏の前では同格っていうことができるかもね。

 

 


(注)
* 願成就院の開創は、『吾妻鏡』によると文治5年(1189年)6月6日、また「伊豆堂供養表白」にも同年6月の年月が書かれているので、間違いないと思われる。ただし、『吾妻鏡』の記述は、つくりはじめから、立柱、上棟、供養までをその日のうちに行ったような書きぶりで、不自然な感は否めない。
 また、時政の願成就院創建の願意について、『吾妻鏡』では奥州藤原氏との戦い(奥州合戦)の戦勝祈願としている。実際に合戦がこの年の7月から9月にかけて行われており、つじつまは合っているようにも見えるが、運慶が時政の依頼で造像を開始した1186年までさかのぼって考えると、この時点で奥州藤原氏との戦いが具体的になっていたとは考えにくい。従って、願成就院は本来、北条氏の氏寺として設立が企図されたと考えるべきであろう。
 なお、運慶がこれらの仏像を畿内でつくり、伊豆へと運ばせたのか、あるいは助作者とともに伊豆にやってきて制作したのかについては、わかっていない。成朝は頼朝に招かれて鎌倉で勝長寿院の造仏を行い、一方、後年の運慶は3代将軍実朝のための仏像を都でつくり送っている。運慶の父、康慶の興福寺南円堂本尊再興では、京の寺院で造仏はじめがおこなわれたが、のち興福寺内に仏所を移して完成させている。願成就院のケースは、どうであったのだろうか。当時の運慶がどのような動きをしていたのかは、興味深い問題である。近年は、北条時政が京から鎌倉へと戻った時に運慶も同道して、東国で造像にあたったとする説が力を増しているようである。

** 南無観音について、平清盛の側近であった平盛国の子、観音房南無仏ではないかとの説が唱えられたことがあったが、広く支持されてはいない。現在のところ、南無観音の人物像は不明としか言いようがない。

*** 平安時代以来、朝廷では五位以上の高い位を持つ貴族がカバネを名乗ったとされるが、高位を得ていない有力武士が朝臣のカバネを称し、公文書に署名することもあった。この木札の「平朝臣時政」もその一例と思われる。