5-12 ゆいまくんの追加講義ー運慶と玉眼について

 

 仏像が完成をみたとき、行われるのが「開眼(かいげん)供養」という儀式だよ。これによって、単に仏の姿を写しただけのものが、信仰の対象となって、その命が吹き込まれるというわけだ。名前のとおり仏像に目を入れることを行う儀式なんだけど、中国ではこれに類するものは行われていないらしい。つまり、日本独自に発達した儀式のようなんだ。日本では目を、物を見る器官というばかりでなく、生命力の源としての意味合いをもって考えていたんだろうね。
 木彫仏の目は、もとは他の体の部分と同じく彫って色をつけていたんだ。これを彫眼という。珍しい例として、瞳にガラスや金属、石を用いた仏像もあるけど、広く用いられることはなかった。ところが、平安時代末期になり、レンズ状に薄く削った水晶を内側から当てて目をつくることで、みずみずしい表情を出すという工夫が登場した。これが玉眼で、鎌倉時代以後広く採用されていったんだ。

 鎌倉幕府の正式な歴史書である『吾妻鏡』の中に、奥州の毛越寺の薬師如来、十二神将像は雲慶(運慶のこと)がつくり、これがはじめて玉眼を用いた例であると書かれているんだ。
 現存する仏像で玉眼が使用された最古の仏像(年代がはっきりとわかっている最も古い像)は、奈良県天理市にある長岳寺(ちょうがくじ)の阿弥陀三尊像で、銘文から1151年の作と知られる。奥州藤原氏2代目の基衡がつくらせた毛越寺の本尊にしても、長岳寺の阿弥陀三尊像にしても、運慶の活躍期よりも前であり、残念ながら「玉眼をはじめて用いたのは運慶」という『吾妻鏡』の記述は、歴史的には誤りと言わざるを得ない。しかし、そのように認識されていたということは、押さえておく必要があるね。
 ところで、長岳寺の阿弥陀三尊像についてだけど、玉眼を用いた表情がとても生々しく、体躯も非常に豊かで、中尊阿弥陀如来像の脚部をくるむ衣には三角形の折りたたみがあるところなど、願成就院の阿弥陀如来像の源流を考える上で、とても重要な仏像といえるんだ。ところが、像内銘には、願主の名前はあるが、仏師名は書かれない。願成就院の木札で仏師、願主が並んで書かれていたのとは大きな違いがあるね。この違いはどこから生じているのか、願成就院像ではどうして運慶と北条時政が同格のように記すということが可能だったのか、ますます興味をかき立てられるね。
 長岳寺の阿弥陀三尊像をつくった仏師の名前は不明なんだけど、奈良仏師であろうと考えられている。おそらく玉眼も、奈良仏師によって発明されたと考えて間違いないだろう。そして、運慶はその技法をきっちりと受け継ぎ、非常に効果的に、用いていったわけだ。願成就院の阿弥陀如来像も本来は玉眼だったので、当初は現在の姿よりもさらに生き生きとした表情を見せていたのだろうね。

 しかし、運慶は仏像制作にあたって必ず玉眼を用いたのかというと、実はそうではないんだ。願成就院の諸像からわずかに遅れてつくられた神奈川県の浄楽寺の仏像では、不動明王像と毘沙門天像は玉眼としているけど、阿弥陀三尊像には玉眼を用いていない。さらにあとの興福寺北円堂でも、本尊の脇に立つ高僧像(無著、世親像)は玉眼だけど、本尊の弥勒仏は玉眼にしていないんだ。
 どうやら運慶は、尊格、安置される状況、願主の意向などを勘案して、玉眼を用いるか用いないか、それぞれの場合で判断していたと考えられているんだ。