5-1 伊豆に運慶仏あり

 

百花さん 今日は伊豆なのよね。伊豆高原とか、おしゃれカフェありそう。楽しみだなー。

ゆいまくん 百花さん、何か間違ってるよ。伊豆高原は伊豆急線という路線だけど、今日は三島から駿豆(すんず)線 * で行くんだ。

百花さん 駿豆線!? そういう名前の電車があるの? 何だか、おもしろい名前ね。で、その駿豆線で行くと、運慶の仏像があるんだって? うそだー。修学旅行で、東大寺南大門の金剛力士像を見たよ。とっても大きい像で、運慶がつくったんだよね。あれって奈良だよね。伊豆は遠過ぎでしょ。

ゆいまくん それがね、伊豆に運慶の仏像が伝わっているんだよ。東大寺南大門の仁王像よりも15年くらい前につくられたもので、願成就院(がんじょうじゅいん)というお寺に安置されているんだ。2013年に国宝指定されたんだよ。

百花さん 願成就院!? 難しい名前のお寺ね。舌を噛みそう。「かわいい名前の駿豆線。濁点多過ぎ、願成就院~」

ゆいまくん また、変な節をつけて歌うのやめてよね。
 願成就院は、韮山(にらやま)駅と伊豆長岡駅が最寄り駅で、どちらから歩いても15分から20分くらいかな。ゆっくり歩いて行くなら韮山駅、タクシーやレンタサイクルを使いたければ伊豆長岡駅がおすすめだよ。

百花さん 伊豆というと、海と山ってイメージだけど、このあたりは平地が広がっているのね。

ゆいまくん そうだね。山がちな伊豆半島だけど、その付け根にあたるこの地域は、豊かな平野が広がっているんだ。伊豆国の国府があった三島にも近いし、狩野川(かのがわ)という川を下れば駿河湾にも出られて、本当にいい場所なんだ。
 駿豆線の線路の西には三島と伊豆半島の南の端にある下田を結ぶ国道(国道136号、下田街道)が南北にまっすぐに通り、そのさらに西側を狩野川が蛇行しながら北流している。願成就院は、国道と狩野川の間、守山(もりやま)という標高100メートルほどの丘を背にして、東向きにたっているんだ。
 守山の北西側には、狩野川に面して北条氏の館があったんだよ(ただし、かつては狩野川は今より東側を流れていたかもしれない)。願成就院は北条氏の氏寺で、鎌倉時代のごく初期につくられたんだ。

百花さん 北条氏っていうのは、えっと、たしか…鎌倉幕府の有力者だったよね。源頼朝が幕府を開くとき、活躍して… そうそう、頼朝の妻の一族で、ドラマにもなっていたような…

ゆいまくん おっ、だんだん思い出してきたみたいだね。頼朝の妻が北条政子、政子の父が北条時政。願成就院をつくったのは北条時政なんだ。運慶はその時政の要請を受けて仏像をつくり、それが今でも願成就院にまつられているんだよ。

百花さん じゃあ、北条氏って伊豆出身だったのね。だけど、北条氏ってのちに鎌倉幕府とともに滅亡しちゃうんだよね。それなのに、お寺は今も続いていて、仏像も伝えられているなんて、すごいね。
 願成就院という名前にも、意味があるのかな。北条氏のお寺ということは、北条氏の願いをかなえるためにつくられたお寺ということでつけられた名前なの? 

ゆいまくん 実はね、阿弥陀如来の願(がん)が成就したことをさしているんだよ。

百花さん えっ、阿弥陀さまの願? 仏さまってみんなの願いごとをきいてくれるんじゃないの? 仏さまの方にも願いがあるなんて、不思議~。

ゆいまくん 釈迦が人の子として生まれ、修行の末に悟りを開いて仏陀となったように、阿弥陀如来もはじめから仏だったわけじゃないんだ。過去、法蔵比丘(ほうぞうびく)という名前であったとき、衆生をもらさず救うことを願って、あらゆる生あるものは悟りを開くことができ、浄土に生まれることができるようにという誓願を立てたんだ。法蔵は気の遠くなるような長い年月をかけてついに自らの誓願を果たし、阿弥陀仏となったとされているんだよ **。
 時政は阿弥陀如来像を本尊とする寺をつくり ***、阿弥陀仏の「願」が「成就」したことをたたえる名をつけたわけだね。
 言うまでもなく、武士である以上、合戦ともなれば殺し、また殺されるという運命を避けて通ることはできないよね。しかし、それは武士の宿命ではあるけれども、やはり罪深いことには違いない。時政もそういう認識を強く持っていたのだろうと思うんだ。だから、必ず人々を救うとの誓いを成就させた阿弥陀仏のことを、切実な心のよりどころとしていたのだろうね ****。

 

北条氏邸跡
北条氏邸跡
狩野川の流れ
狩野川の流れ


(注)
* 旧国名の「駿河」と「伊豆」から1字ずつとって名づけられた私鉄路線。ただし、かつては沼津始発だったが、今は三島から終点の修善寺まですべて旧伊豆国内を走る。全線でおよそ20キロ。

** 阿弥陀仏、阿弥陀信仰を説く経典は多いが、法蔵比丘が誓願を果たし西方極楽浄土の教主阿弥陀仏となったことを説いているのが、『無量寿経』である。漢訳は12回にも及び、日本では、魏(三国時代)の康僧鎧(こうそうがい)訳『仏説無量寿経』が広く用いられている。それによると、法蔵は48の誓願を立て、成就したとされる。

*** 北条時政が願成就院に安置した仏像は以下の通り。創建時、運慶につくらせた仏像が、阿弥陀三尊像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像(阿弥陀三尊像の脇侍像は現存せず)。のち、願成就院北側に設けていた頼朝のための邸宅を、頼朝の死の翌年(1200年)に寺に改め、まつったのが、阿弥陀三尊、不動明王、地蔵菩薩など(現存せず)。晩年の1207年には、願成就院の南に塔を建て、ここには大日如来を中心とする五仏をまつっている(現存せず)。

**** 北条時政が実際のところどれほど阿弥陀仏を信仰し、往生の願いを持っていたのか、史料からは読み取ることができない。しかし、一般論として、鎌倉時代前期には武士たちの中に自己を罪障深きものと認識し、宗教世界に接点を持とうとする傾向が高まっていたと考えられている。