5-3 阿弥陀如来像はガテン系

願成就院大御堂
願成就院大御堂

 

百花さん ここね、願成就院! 運慶の仏像は…

ゆいまくん 正面の大御堂(おおみどう)というお堂に安置されているんだ。
 左手に本堂があり、そちらはお檀家さんが法要などを行なうためのお堂、一方、運慶の仏像をお目当てに訪れる参拝客はこちらの大御堂へと分けて対応しているんだ。

百花さん それは、なかなか合理的ね。
 こちらが大御堂ね。落ち着いた雰囲気のお堂で、かわいい感じ(♡)。
 正面の壇の上の並んでいるのが、運慶作の仏像なのね。ちょっと距離があるけど、照明が当たって、お姿がとてもよくわかる! 同じ空間にいるだけで、オーラを浴びているみたい。

 

ゆいまくん じゃあ、仏さまを順に見ていこう。まずは、中央の阿弥陀如来像だね。どんな印象があるかな。

 

存在感のある阿弥陀如来像
存在感のある阿弥陀如来像


百花さん うん、いい。とにかく、カッコいいね。波風のない穏やかな悟りの境地…みたいなのとは、ぜんっぜん違って、ガンガン攻めてるね。体つきがもう、すごい。首は短くて、肩から胸はどっしりと力強く、迫力があるねー。ガテン系かな。横からの姿は見えないけど、体の厚みもすごそう。  
 これで像高はどれくらい? 半丈六のサイズだっけ。

ゆいまくん 像高は約142センチ。ヒノキの寄木造だよ。頭と体の中心部は4本の材からつくられているんだ。細い材を組み合わせたりといった特別なことはせず、比較的太い材を用いて、内ぐりは大きくほどこし、内側もていねいに仕上げているんだ。
 いい材料を使えているのは、願主の時政の手腕も大きいかもしれないね。
 体つきは、百花さんの言うとおり、ほんとうにがっしりとして、それまで仏像の規範とされてきた定朝の様式とはまったく違っているよね。この像を、ボクサーのようだとおっしゃった方があるくらいだよ。
 じゃあ、組んでいる足や体をつつんでいる衣の様子はどうかな。

百花さん 組んだ足は左右にしっかりと開いていて、力強い上半身を受けとめて、安定感があるね。中央で左右の足首を重ねたところは少し低く、膝頭のところは高くしているのね。
 足をくるむ衣の襞(ひだ)も、彫りが深いし、平行でなくて、線が二股に分かれたりして、縦横無尽に流れがつくられていて、とっても勢いを感じる。
 あと、手の組み方が、えーと、変わっている気がするんだけど… 両手を胸の前に出して、てのひらをこちらに向けて、左右の手首を近づけるようにしているのね。この手の形の阿弥陀さま、はじめてよね。

ゆいまくん なかなかいいポイントを押さえているね。
 そう、この像の印相(いんぞう)は、これまで見てきた阿弥陀如来像と違っているね。法金剛院で拝観した阿弥陀如来像は、お腹の前で両手を組む定印。平等院鳳凰堂の定朝作の阿弥陀如来像も定印だよ。一方、三千院で拝観させていただいた像は、右手を胸のあたりまであげて左手はおろす来迎印だったよね。平安時代の阿弥陀如来像は、そのほとんどが定印か来迎印なんだ。
 でも、この願成就院の阿弥陀如来像は、そのどちらでもないよね。両手を胸の前あたりで組んでいる。これは説法印といい、仏さまが浄土において仏法を説いているさまをあらわすものなんだよ。如来の真実の言葉が紡ぎ出されていくことを法輪が回るさまにたとえて、転法輪印(てんぽうりんいん)ともいうんだ *。
 説法印を結ぶ阿弥陀如来像は、奈良時代から平安時代前期にかけて作例があるんだけど、以後は定印、来迎印の像が多くなる。そうした中、この像が説法印の阿弥陀如来像としてつくられたのは、どうしてなのか。

百花さん どうして?

ゆいまくん どうしてなんだろうねぇ…。

百花さん なんだ、わからないんかーい。
 あ、そうだ。北条時政と運慶、どっちも興福寺に関係があったんだよね。興福寺にモデルとなった仏像があったとか、どう?

ゆいまくん おっ、百花さん、今日はとてもさえているね。興福寺講堂本尊の阿弥陀如来像(堂、像とも現存していない)が説法印を結んでいたことがわかっていてね、その像にならってつくられたのではないかとする説があるんだよ。
 奈良仏師の出身の運慶は、常日頃より興福寺をはじめ、南都の古仏に接する機会が多くあったはず。メンテナンスを担当したり、修理を依頼されることもあったに違いない **。運慶が定朝様式を飛び出して、今、目の前にあるような迫力に満ちた像をつくることができたのは、定朝様の仏像よりも古い時代につくられた仏像からの影響が大きな要因になっているという考え方があるんだ。とするなら、そうした古仏と出会いの中に、説法印の阿弥陀如来像もあったのかもしれないね ***。

百花さん この阿弥陀さまが説法印を結んでいることと、運慶がどうしてこんな迫力ある仏像を生み出せたかということは、別々の話ではなくて、互いに関連しているかもしれないということね。なるほど! そういえば、新しいものを生み出す力は、実は古典の中こそ潜んでいるって話、昔、学校で聞いた気がする。その時は聞き流して終わりだったけど、実際にそういうことってあるのね。

ゆいまくん でもね、このような考え方は、仏師である運慶を中心に見たものだよね。願主は北条時政なんだから、説法印の阿弥陀如来をつくり、まつることを最終的に選択したのは時政だったはずだ。時政の意向を聞かずに、運慶が勝手にそうしてしまったっていうのは、考えにくいよね。ということは、時政がなぜこの印相を選択したのかを考える必要があるよね。
 ところで、さっきも言ったように、説法印は仏が浄土で説法をしていることを示す印相とされている。基本的にはそれはそうなんだけど、仏画の作例を見ると、阿弥陀仏がこの印相で来迎するシーンを描いたものがあるんだ ****。

百花さん 説法印といっても、その意味するところは1つではないということね。

ゆいまくん 経典には、極楽浄土で阿弥陀仏がこの印を結んでおり、礼拝者も、自身の滅罪と往生を阿弥陀仏に願い、陀羅尼(だらに)という祈りの言葉を唱えながら、同じ印を結ぶことを説いているものがあるんだ。つまり、説法印ではあるけれども往生の印でもあるっていうふうに展開していったと考えることができるんだ。「覚禅鈔(かくぜんしょう)」という平安末期~鎌倉初期成立の仏教書には「決定往生印」という言葉が出てきていて、その形は説法印と同じと述べられていたりもする。こうしたことから推して、往生を強く願った時政により選択されたのが、この印相ではないか、そのように考えることができるわけだね。

百花さん なるほどね~
 でも… 自分や一族の極楽往生を願ってということなら、従来の来迎印でもよかったんじゃないのかな。時政は阿弥陀仏の印相の意味をそこまで深く理解して、こっちの方がさらによいだろうって、わざわざ選んだのかな。ちょっと疑問~。
 やっぱり、運慶の側から何かしら提案があって、のっかったような気もするけどなー。「運慶くん、君がそう言うなら、説法印でいってみよう。頼んだぞ!」、みたいな…

ゆいまくん 時政と運慶の間でどんなやりとりがあったのかは、残念ながらわからない。でも、時政が運慶を信頼して存分に腕を振るわせたことで、こうした革新的ともいえる仏像ができあがったということは、言えそうだね。

 運慶が選ばれたのは消去法だったかもしれないけど、奈良時代や平安時代前期の仏像のエッセンスを存分に吸収して、新時代にふさわしい像を生み出そうとするその意気に感じて、時政は造像を任せた。その結果、平安時代の多くの阿弥陀如来像とはまた違った印相が選択され、迫力に満ちた造形が生み出されたことへとつながっていったのだろうね。

百花さん 大きな決断を経て、鎌倉幕府成立に力を尽くした時政だからこそ、新たな時代を切り開こうとする運慶に対して、自分と重なるものを感じたんだろうね。任せた時政とそれによく応えて結果を出した運慶。2人はいいタッグを組んだということね。

 


(注)
* 説法印は本来仏陀が説法する時の印相であったが、隋~唐初期の中国で阿弥陀仏の姿として多く用いられるようになり、日本にも伝えられた。胸前での手の構え方にもバリエーションがあったが、奈良時代後期以後は両方のてのひらを外に向け、両手の親指の付け根を近づけ、親指と薬指、または親指と中指で丸印をつくるタイプが一般的になる。願成就院の像は指先が失われているが、残された部分の指の曲げ具合から、親指と中指で丸印をつくっていたらしい。

** ただし、奈良仏師が奈良で仏像修理の活動のみ行っていたというということではない。実際、後白河院の蓮華王院の造仏など、院、朝廷の造仏を担当することもあった。

*** 興福寺講堂の阿弥陀如来像は、12世紀前半成立の「七大寺巡礼行記」「七大寺巡礼私記」に「説法印」と注記されている。この仏像は現存しないが、奈良・平安時代前期ごろの作で現在も奈良に伝来する説法印阿弥陀如来像としては、興福院(こんぶいん)の阿弥陀三尊像、西大寺の伝宝生如来像(本来阿弥陀如来像か)、法隆寺伝法堂の阿弥陀三尊像(2組)がある。
 なお、願成就院の阿弥陀如来像の体躯の量感、衣の襞が深く、自由闊達に走り、枝分かれしたような線が見られること、右のももの上に見える三角に折り畳まれたような衣の表現も、奈良、平安時代前期の仏像に範をとったものと考えられる。

**** 説法印をむすんで来迎する阿弥陀如来像の絵画作品としては、兵庫県加古川市の鶴林寺大師堂の壁画が古い(1112年)。奈良に伝わる仏画では、法華寺(奈良市)の「阿弥陀三尊及童子像」(平安後期~鎌倉時代)を代表作としてあげることができる。