5-10 拝観を終えてー百花の感想

 

 伊豆で運慶?って最初は思いました。そしたら、源頼朝の妻、北条政子の父時政がつくらせた仏像だそうで、北条時政や政子といった人たちは歴史の教科書の中だけの登場人物のように思っていたのが、実際に彼らがかかわったり、祈ったりしたかもしれない仏像が伝わっているって知って、びっくりです。しかも作者が、あの有名な仏師運慶だなんて。
 そして、その仏像の迫力のすごいこと。阿弥陀如来像の体の張りや厚み、衣のひだの力強い流れは、一度見たら忘れられないっていうくらい強い印象です。不動明王像や毘沙門天像はリアルで今にも動きそう。でも、同時に安定感や気品がある。童子の2人の対比もおもしろいし、ほんとうに運慶ってすごい仏師だったんですね。貴族から武士へと時代の主人公が変わっていく時代の流れをしっかりと受けとめながら制作した結果ということなんでしょうが、むしろ彼自身が「新しい時代を作ってやる」ってくらいの意気込みで革新的な仏像を生み出していったのかも。それには、願主の北条時政が運慶の技量を引き出す役目を果たしたという面もあったのでしょうね。
 本尊の阿弥陀如来像は顔など正面に損傷があり、これらの仏像やお寺がその後たどった歴史はけっして平坦なものではなかったことがわかります。本来はこのたくましいボディにふさわしく、いまよりさらに張りのある顔立ちだったのでしょうね。

 像の納入品を見ることができたのも、うれしかったです。五輪塔形に切り出された形もきれいで、文字もくっきりと美しく、これ自体が芸術品ですね。梵字で書かれた宝篋印陀羅尼は、罫線を引いた中に一文字ずつ几帳面におさまっています。これを書いた南無観音は、いったいどんな人物だったのでしょうか。大体、名前がいいですよね。人から名前を呼ばれたり、自己紹介したりするたびに「南無観音」って、観音さまへの祈りの言葉が発せられるなんて、よく考えましたね、そんなこと。今のところこの人についてほとんどわかっていないって聞いて、ちょっと残念。


 願成就院の仏像が紆余曲折を経て運慶作であると分かっていった過程にも、ドラマがあったんですね。これらの仏像が運慶作と認められるにあたっては、神奈川県にある浄楽寺というお寺の仏像がかかわっていたということですが、そちらの仏像は北条氏のライバル御家人だった和田義盛のオファーで運慶がつくったものだそうですね。浄楽寺にも絶対に行かなきゃ!

 


<百花さんから追加のひとこと>
 願成就院の像より前に運慶が手がけた仏像が2体伝わっていて、奈良の円成寺と興福寺にあるそうです。円成寺の大日如来像は台座の中に銘文があって、もちろん見ることはできないのですが、ゆいまくんによれば、とてもユニークな書き方なんだそうです。もう1つは、願成就院の仏像の直前に取り組んでいた、興福寺西金堂の釈迦如来像で、頭部だけ(光背の飛天も何体か残る)になってしまっているということですが、興福寺国宝館で見られます。