9-7 六観音像をつくった仏師、肥後定慶

百花さん 六観音像をつくった仏師は誰なのかはわかっているの?
ゆいまくん あ、それはわかっているよ。
百花さん やったー! このまま「それ以上は不明」「確定的なことは言えない」ばかりで終わったらどうしようかと思ったよ。作者はわかっているんだ。よかった! …あれ、どうしたの? 何か困ったような顔をしていない?
ゆいまくん わかってはいるけど、ここにも謎があるんだ。
百花さん そう来たか、やっぱり。
ゆいまくん 願主の名がわかったのは、納入された経巻の奥書からだったよね。それとは別に像に直接書かれた銘文があるんだ。ただし1体にだけ、向かって右から2番目の像の内部なんだ。
百花さん 2番目の観音さまだから名前は…准胝観音。 あまり聞かない名前なのよね。ちょっと覚えにくい‥
ゆいまくん そう、十一面観音や千手観音に比べてポピュラーではないかもしれないね。准胝観音は諸仏を生み出した母なる観音とされるんだ *。
百花さん 諸仏の母? なんだかスケールが大きすぎる話で、ぴんとこない…
ゆいまくん そうだね、今ある苦しみから救ってくれるといったわかりやすい話でないからか、この観音へ信仰はそれほど広がらなかったといえるかもしれない。でも、六観音においては人間世界で救済を担当する観音さまなんだ。
で、この像の背面内側に短い銘文があって、この准胝観音は肥後別当定慶(じょうけい)がつくったとあり、また納入品に書かれているのと同じ1224年を示す年も書かれているんだ **。
百花さん 仏師名、出たー! 肥後別当定慶! …あれ、「この准胝観音は」って断っているっていうことは、じゃあ別の像は別の作者ってことになるのかな? いやいや、六観音像としてこんなにも統一性があるんだから、つくるのを助けた弟子みたいな仏師はいただろうけど、全体の制作者は1人でしょ。ということは、その肥後別当定慶が六観音像の作者なのよね?
ゆいまくん うん、まさにそれが問題であり、謎なんだ。
確かにわかっているのは、6体は別々の仏師によってつくられているということだ。どうしてそう言えるかというと、この六観音像は素地でつくられているから、表面の拡大写真を撮ると、仕上げをしたノミのあとが写る。このノミあとの様子が6体全部で異なっているんだ ***。だから、六観音像は各像それぞれ担当仏師がいたってことになる。
でもね、百花さんが言うように、像高が揃っているとかそういうレベルでなく、全体としてとても調和が取れているよね。だから、仏師が6人いたとしても、それは1つのチームとして制作にあたっていたと考えるべきだ。そしてその中心にいたのは、唯一銘文を残した(記すことが認められた)肥後別当定慶だ。だって、銘文は准胝観音にしかない。つまり他の像の作者は、この像は自分がつくったと主張しにくい立場にいる、ということは定慶が全体を統率する立場だったと考えることができそうだ。実際、6体を仔細に比較すれば准胝観音像が最も優れた出来ばえを見せているしね。
百花さん そうかな。馬頭観音だってとってもいいよ。あと、未来の私を救ってくださる如意輪観音さまだって負けてないし。
でも… 准胝観音像をよくよく見るてみると、なるほど… もちろんどの像も素晴らしいよ。素晴らしいけど、准胝観音像、確かにすごいかも。
額の上のヘアバンド的なアレだけど、髪を絡めている。これカッコいいよすぎ。てかチャーミング。結い上げた髪も手がこんでいるみたい。
つるりと卵形の顔は張りがあって生き生きしているね。左右にたくさんある腕もおさまるところにぴたっとおさまっている感じだし、下半身の衣が自然に重なったり折りたたまれたりしている様子がまた華やかだね。
ゆいまくん この時代の仏像彫刻は、制作前に小さな型をつくるらしいから、定慶がまずつくって、これを仏師間で共有し進めたのかもしれないね。
百花さん 定慶は誰の弟子なの? 「慶」とつくからには、運慶、快慶らの慶派仏師なんだよね。名前の前についている「肥後別当」というのは何?
ゆいまくん 慶派仏師であることは確かだと思う。名前からしてそうだし、力のこもった造形が運慶の系譜を受け継いでいることを示している。さらに「肥後」という名乗り、こうした国名が何に由来するものかは不明だが、仏師名の前につけるのは慶派仏師でままみられる
。「別当」は「監督者」といった意味だけど、実質的な地位を示すものではない。この時代の有力仏師はほら、法橋・法眼・法印といった特別な位を与えられたという話、以前にもしたことがあったよね。でもこの時の定慶はそうした僧綱位は受ける前なので、「別当」という名乗りを自らしたのかもしれない。
なお、鎌倉時代に定慶を名乗る仏師はほかにもいたので、この定慶のことを「肥後定慶」と呼ぶことが多いんだ ****。
百花さん 肥後定慶ね。よし、覚えた! この人についてはほかにどんなことがわかっているの?
ゆいまくん まず年齢だね。1184年生まれで、運慶の長子、湛慶よりも11歳年下ということになる。運慶の次世代、あるいは次の世代と次の次の世代の間のような時期に活躍した仏師と言えるね。
彼の今残る最も早い作品がこの大報恩寺の六観音像なんだけど、この時もう41歳。仏師のチームを指揮し仕事を進めているわけだから、慶派の有力仏師と言えるだろうね。しかしこの年齢でまだ僧綱位を得られていないということは、特別な血筋というわけではなかったと思われる。でも、最終的には法眼まで上るし、ほかにいくつもの優れた仏像を世に残し、鎌倉時代中ごろの1256年まで息長く制作をしているんだ。
百花さん 今残っている像としてはこの六観音像が最初で、それが41歳か。現代だったらまだまだ働き盛りの年だけど、当時としてはもう後半生、もしかしたら晩年に入ったみたいな感じだったのかもね。でもそこから30年以上も活躍したんだから、すごいね。すごい。
けど、今回は分かったことも多かったけど、分からないことがいかに多いかみたいな話が多かった気がする。ちょっとモヤモヤするよー。今晩眠れなかったらゆいまくんのせいだからね。
ゆいまくん いや、大丈夫だと思うよ。
(注)
* 「過去無量の諸仏の母」の意味を持つ菩薩。経典には、求めるところによってさまざまな姿で観ずることができるとされるが、本像のような十八臂像が一般的である。本像の場合、腕が左右それぞれ前から2本、3本、4本の順に3列で取り付けられて綺麗に扇型に広がっており、動きと安定感が共に備わっている。
** 銘文は「此准提観音者/造仏師肥後別当定慶(花押)/貞応参年五月三日」と書かれている(/のところで改行して、3行で書かれる)。貞応参(三)年は1224年を指す。
*** 表面のノミのあと以外にも、耳の形やてのひらの線のつけ方も像ごとに異なっていることが指摘されている。
**** 鎌倉時代には少なくとも4人の定慶がいたことがわかっている。1人めは南都復興事業で活躍し、興福寺東金堂の維摩居士坐像などをつくった定慶。2人めが肥後定慶。3人めが京都府八幡市の宝寿院に伝わる阿弥陀如来立像(1235年)をつくった泉州別当定慶、4人めが13世紀後半に法隆寺を舞台に仏像修理や光背・台座の新造を手がけた越前法橋定慶である。

せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅