9-10 ゆいまくんの追加講義-六観音像は増援の仏師があって完成?
肥後定慶について、運慶の子であるという説があるんだ。
その根拠となっているのは京都の北西にある高山寺に関する史料、「高山寺縁起」だ。高山寺は慶派と深い縁があり、運慶とその一門がつくった仏像が高山寺金堂に安置されていたことがあった(現存せず)。「高山寺縁起」はそれらの仏像について、制作にあたった仏師名とともに列挙しているんだけど、四天王像のうちの広目天像のところに「康運改名定慶」とある。康運は運慶次男の仏師で、それが定慶と改名したというのだ。この「定慶」が肥後定慶のこととするならば、肥後定慶は運慶の次男ということになり、だからこそ肥後定慶はあのような生き生きとした像をつくることができたのだ、それは運慶の子としてその造形力を継承したからなのだという話になる。なかなか魅力的な説だよね。
結論から言うと、これは成り立たない。
1212年ごろの興福寺北円堂再興造仏においても康運は四天王の1体を任されているんだけど、その時康運はすでに法橋位にあったとわかっているんだ。その後に定慶と名前を変えたとしても、受けた僧綱位がなくなってしまうわけはない。しかし肥後定慶は1224年に大報恩寺六観音像をつくった時点でまだ無位であり、法橋になるのはもっとあとのことだから、運慶次男の康運と肥後定慶が同一人物であるとするならば、僧綱位について矛盾が起きてしまうんだ(ちなみにこのことはすでに戦前に金森遵が指摘している)。
40歳を過ぎてもなお無位であった肥後定慶は、あくまで慶派の一傍流仏師であって、運慶の子ということはあり得ない。
では、その傍流仏師、肥後定慶が(少なくとも)5人の仏師を率いて六観音像の造立にあたることができたのはどうしてなのかという疑問が次に起きてくる。それぞれに1体ずつ等身大の仏像を、それも扱いの難しいカヤを用いて素地仕上げの像をつくるというハードルの高い造像を任せられるほどの弟子が5人、当時の肥後定慶のもとにいたのかといえば、それはちょっと現実的ではないように思える。
実はこの問題を解くためのヒントが、六観音像が安置されているのと同じ大報恩寺の霊宝殿の中にあるんだ。六観音像と向かい合う壁面にこのお寺の創建以来伝わる十大弟子像がやはり横一列に置かれているので、見てほしい。これらは釈迦の偉大な10人の弟子たちの肖像彫刻で、像高は各1メートルほど。大報恩寺の本尊の釈迦如来像に付き従う像として晩年の快慶がその一門とともに造立したものなんだ。
このうち目犍連(もっけんれん)と伝えられる像の足のほぞに「巧匠法眼快慶」の銘、また優波離(うぱり)と伝えられる像の頭部内に「法眼快慶」と「法橋行快」と読める銘がある。頭部内の銘は結縁のための銘かもしれず、はっきりと快慶自身の作とわかるのは目犍連像。この像に注目してみよう。向かって左から3番目に立っている像だよ。斜め横から後頭部の形を見ると、綺麗な円形(球形)をしているのがわかるだろう。これを覚えておいて、近い頭の形の像を探すと、頭部内に銘記のある優波離像を含めて、あと5体見つけることができる。別に難しくはないよ。少しだけ注意深く見ればじきにわかる。快慶作を含む6体の後頭部は丸型と覚えてほしい。
では残る4体の像の頭はどうなっているのかというと、綺麗な丸形ではなく、ゴツゴツしていたり、人間の実際の頭の形が多くそうであるように後頭部の途中から丸みがなくなっていたりしているんだ。この4体の方が頭の形を写実的にあらわそうという意識を持って作られているということができそうだ。
10体は像高が揃っているし、彩色の具合や台座などが同様であるから、これらが一具であることは疑いようがないけど、細部を観察すると6体と4体に分けられて、それぞれ作者の系統が異なっているとわかるんだ。
では、どうしてそうなったのか。
法眼まで上り、数々の実績を積み、行快をはじめ優秀な弟子を育ててきた晩年の快慶にとって、自らの工房の力だけで1メートルほどの像を10体つくることがそれほど困難であったとは思えない。しかし、そこには何かしらの事情があったのだろうね。その事情がどのようなものかはもはやわからないが、ともかく快慶は近い関係にあった工房に応援を要請したのだろう。頼んだ先はおそらくかつてともに仕事をした運慶の系列の工房で、もちろん要請どおりの仕事をしてくれたわけだが、細部についてはその派のクセ(この場合、より写実を目指す)が出てしまったと、こういうことのようだ。
こうした工房間の協力関係が仏師界全体であったかどうかはともかくとして、この時期の慶派の系統では行われていたんだね。
さて、話を肥後定慶と六観音像に戻し、結論を急ぐと、自分と弟子ではつくりきれない6体の像の制作を前にして、肥後定慶も関係の近い工房に増援を求めたのだろう。もちろん当時無位の肥後定慶と晩年の快慶とでは、他の工房に依頼するといってもまったく同じようにということではなかったろうけどね。しかし結果的にはあれだけのみごとな六観音像が完成したんだから、即席ながらよいチームが作れて素晴らしい仕事ができたと言えるだろう。
依頼した先はどこだろうか。肥後定慶の師弟関係は不明だが、慶派仏師であることは確かと思われるので、依頼先も運慶の子や弟子たちだった可能性が高いだろう。その後の定慶の事績を見ると高山寺三重塔や東大寺講堂の造仏で運慶の長子である湛慶と共に仕事をしているようなので(これらの作品はいずれも現存していないが)、湛慶との関係も想定できるかもしれないね。
*注記 他の5体のうち最も准胝観音像に近いのが十一面観音像であり、准胝観音像と十一面観音像が肥後定慶と弟子の作、その他の4体は別工房の仏師の作とする説がある(参考文献の奥健夫『仏教彫像の制作と受容』第二章六「肥後定慶は宋風か」参照)。また、馬頭観音像の裙(くん、下半身の巻きスカート)の折りたたみの表現は快慶や行快の仏像に類例があるとして、その系列の仏師の作ではないかとの見解がある(参考文献の『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』所収の皿井舞「大報恩寺の創建と慶派仏師の競演」参照)。
せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅