9ー11 大報恩寺の六観音像、地蔵菩薩像および肥後定慶関係年表
1220年 義空上人、「仮堂」をつくりはじめるという
1220年ごろ 大報恩寺十大弟子像、快慶らによってつくられる
1221年 義空上人、仮堂に釈迦如来、十大弟子像を安置するという
1223年 義空上人、大報恩寺本堂をつくりはじめるという
1224年 肥後定慶、大報恩寺六観音像をつくる
1224年 肥後定慶、東京藝術大学大学美術館所蔵毘沙門天像をつくる(当時の東京美術学校が奈良の骨董商より購入、それ以前の安置場所不明)
1226年 肥後定慶、鞍馬寺聖観音像をつくる(1229年、鞍馬寺に奉渡)
1228年(安貞元年=1227年だが、12月27日のことなので、今の暦に直すと1228年) 大報恩寺本堂上棟(棟木墨書による)。なお、現本尊の釈迦如来坐像はこの頃またはこののち行快によってつくられ、安置されたもの
1229年 定慶(肥後定慶のことか)、京都・高山寺三重塔の文殊菩薩像をつくる(「高山寺縁起」による。中尊毘盧舎那仏と脇侍の普賢、観音、弥勒は湛慶がつくり、文殊のみ定慶が制作。現存せず)
1235年 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の正室竹御所の1周忌供養。造仏担当は肥後法橋(肥後定慶ことと考えられる)
1235年 鎌倉の明王院に五大明王像を安置。そのうちの中尊(不動明王像)が現存(他は近世の後補にかわる)。肥後定慶が作者か
1241年 義空、亡くなる。70歳であったという。
1242年 肥後定慶、4人の小仏師を率いて兵庫・石龕寺の金剛力士像をつくる(この時法橋位、銘に「大仏師南方派肥後法橋定慶生年五十九」とあり、肥後定慶の生年が判明)
1250年 肥後定慶、光明峯寺奥院御影堂の弘法大師像をつくる(この時法眼位、現存せず)
1256年 肥後定慶、東大寺講堂の浄名居士(維摩居士)像をつくる(現存せず)
1256年 肥後定慶、4人の小仏師を率いて岐阜・横蔵寺の金剛力士像をつくる(銘に「坪坂住大仏師法眼和尚位定慶」とある)
1264~75年 この頃大報恩寺2代如輪(如林、如琳)上人澄空により「千本の釈迦念仏」がはじめられる(『徒然草』)
1392年(明徳2年=1391年だが、12月のことで、現在の暦では1392年) 明徳の乱。山名氏清敗死
1401年ごろ 北野経王堂が明徳の乱の戦没者を弔う大規模供養を恒常的に行う場として創建。場所は北野天満宮の南側
1515年ごろ 北野経王堂、大報恩寺の管理下となる
1606年 北野経王堂、修理(豊臣秀頼の援助)
1670年ごろ 北野経王堂の荒廃進み、安置仏であった六観音像、地蔵菩薩像は大報恩寺に移される。経王堂はその後解体される。なお、付属の輪蔵はその後も存続するが、近代初期に輪蔵に納められていた経典類も大報恩寺に移された(輪蔵は愛媛県・瑞応寺に移築され、現存)
1669~1670年 大報恩寺本堂大修理。この時旧北野経王堂の廃材が利用されたという
1888年 近畿地方古社寺宝物調査。その際撮られた写真により六観音像の当時の安置状況が知られる(本堂内陣の左右の間に3体ずつ安置、なお並び順は現在と異なっていた)
1937年 金森遵が論文「仏師定慶について」を発表(『東洋美術』25号)。仏師定慶に関する基本的な内容が整理される
1951~1954年 大報恩寺本堂修理(昭和修理)。創建当初の姿に戻すことを目指して行われる。この修理で棟木銘発見
1952年 大報恩寺本堂を国宝指定
1956年 六観音像を重要文化財指定
1957~1958年 六観音像解体修理。像内銘、納入品の発見。納入品は取り出され、別保管となる
1959年 六観音像の納入品を重要文化財の附指定とする
1966年 大報恩寺に第1収蔵庫がつくられる
1983年 大報恩寺に霊宝殿がつくられる
2018年 東京国立博物館で特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」が開かれる
2024年 六観音像、地蔵菩薩像を合わせて国宝指定。(六観音像は重要文化財から、地蔵菩薩像は未指定から) 六観音像納入品は附指定とする
2025年 長く未指定であったために修理の機会に恵まれなかった地蔵菩薩像の修復がはじまる(2026年まで?)
せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅