10ー7 伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像は鑑真さんの面影を伝える?

ゆいまくん いや、諦めるのはまだ早い。伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像の本当の名前を推測することはできると思うよ。2つの像はともに顔は1つ、目が3つで手は数本の菩薩像だよね。こういう姿の像、百花さん心当たりない?
百花さん …あ、もしかして、変化(へんげ)観音?
ゆいまくん おっ、今日は冴えてるじゃない。
百花さん あ、また「今日は」って言ったな。私はいつだって冴えているのだ! でも、大報恩寺の六観音の中にはいなかったような…
ゆいまくん 興福寺南円堂でお会いしているよ。ほら、四天王像に囲まれていた…
百花さん 待ってね、今思い出すから。興福寺南円堂… 行ったよね。四天王像、見た。そしてその真ん中に座っていた変化観音さまが、あ、見えます! 見えてきました。
ゆいまくん 水晶玉を覗く占い師みたいになっているけど、大丈夫?
百花さん しーっ、黙ってて。もうちょっとなんだから。えっと、すんごく大きい、ド迫力のあの像だ。目が3つで手が何本もあった、不空…なんちゃら観音!
ゆいまくん そう! 不空羂索(けんさく、けんじゃく)観音 *
だよ。興福寺南円堂の不空羂索観音は8臂(臂は腕のこと)だけど、経典には4臂像などの姿も説かれているし、鹿の皮を着けた姿とされるので、伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像が上半身にたすきにかけているひだのない帯状のものがこれにあたると考えられる。さらにね、草創期の唐招提寺に羂索堂というお堂があったことがわかっているんだ。
百花さん ビンゴだ! 本当の名は不空羂索観音で決まりっ! いや待てよ… 両方ともっていうのは変よね。1つのお堂に同じ仏さまを2体まつるってことは普通ないでしょ。どっちかが羂索堂本尊だったとして、もう1体は?
ゆいまくん 百花さん、今日は本当に冴えているね。そうなんだ。ここからは3つの時代の史料が参考になってくる。ちょっとややこしいかもしれないけど、いいかな。
最初は、平安時代前期の豊安(ぶあん)**
という僧の著作だよ。彼が書き残した鑑真と唐招提寺についての文章に、「羂索堂には金色(こんじき)の不空羂索観音像と八部衆像が安置されていた」(「招提寺建立縁起」)、「鑑真は揚州の大明寺で律を講じていた時に、般若仙と称する三目六臂の菩薩の姿を現じた」(「鑑真和上三異事」)などと書かれている。般若仙についてはよくわからないけど、三目六臂の菩薩ということから伝衆宝王菩薩像を連想させるよね。ということは伝衆宝王菩薩像は鑑真を菩薩の姿であらわした像であるのかもしれないということだね。
でも、羂索堂本尊の不空羂索観音は「金色」と書かれているのが引っかかる。伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像はともにカヤを用いた檀像様の仏像、すなわち彩色等をほどこさずにつくられた像と思われるから、そこは合致していない *** …
百花さん 確かに、金色というところは気になるね。でも、物理的に金色ではなくても、「輝くように神々しい」的な、そういう使い方をしたんじゃない?
ゆいまくん そうかなあ… そういう使い方があるのかどうなのか…
百花さん 何よ、まったく。ここへ来てそのはっきりしない態度は。
ま、とにかく、2番目の史料の話に進みましょ。
ゆいまくん 羂索堂は早くに倒壊し失われてしまったんだけど、唐招提寺の歴史にとって重要なお堂だったという認識はその後も長く続いたようで、江戸時代の記録でも登場しているんだ。それによると「羂索堂の不空羂索観音像は像高五尺余り、三目四臂で、鑑真の本地(ほんじ)仏であり、鑑真は中国においてその姿を現した」って書かれているんだ(『招提千歳伝記』の「殿堂篇」)。ここに「三目四臂」と明記されているから、これに該当するのは伝獅子吼菩薩像。この記述から、伝獅子吼菩薩像が羂索堂本尊の不空羂索観音であったと推測ができそうだ。
百花さん 本地仏って?
ゆいまくん 本地というのは本来の姿ということだよ。鑑真さんはのちの人たちから本当は不空羂索観音だったんだと考えられて、信仰の対象となっていたということだね。
百花さん さっきの豊安さんの史料もそうだったけど、鑑真さんはその偉大さからもはやただの僧とは思えない、菩薩さまに近いと考えられていたっていうことね
****。その江戸時代の史料では、羂索堂の不空羂索観音像は伝獅子吼菩薩像の可能性が高いみたいだけど、さっきの史料によれば伝衆宝王菩薩像も鑑真の菩薩としての姿として拝まれていたのかもしれないってことだったのよね。
うーむ、なかなかムズいなー どちらも不空羂索観音かもしれない、鑑真さんはその化身と昔の人は思っていた。ということは、どちらが羂索堂の本尊であってもおかしくないような、でもはっきりそうとは言えないような。んんー、もどかしい!
まだ3番目の史料があるのよね。これでもっとわからないという話になったら、私、暴れちゃうかも。で、どうなのよ、3番目っ!
ゆいまくん …3番目は平安時代後期に奈良を巡拝した大江親通という人の記録で、「羂索堂には不空羂索観音像と商伽羅王(しょうからおう)像がある」って書かれているんだ。そのあとに、唐招提寺と東大寺が揉めた時にはこの商伽羅王が東大寺側をこらしめたという伝承が続いている。
商伽羅王というのは大自在天という神さまの別名で、不空羂索観音について説いた経典には、その姿は大自在天と同じと書かれている。だから…
百花さん 待った! 早口で今、何かごちゃごちゃーって言ったでしょ。別名だとか、同じものだとか。やっぱりややこしい話じゃないの。
要するに… 羂索堂には2体像があったというのね、その平安時代後期の記録によると。1体が不空羂索観音、もう1体がえっと、商伽羅王という神さまで、その商伽羅王は大自在天と同じ。そして不空羂索観音は大自在天の姿と同じってことは、商伽羅王は不空羂索観音と同じってこと? じゃあ羂索堂には不空羂索観音像が2体あったってことになって、そうすると伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像は両方ともが不空羂索観音として羂索堂にまつられていたって可能性が出てくるわけだ。そういうことだよね。
いいじゃん、その説。
そうすると、仲良く横に2体並んでたのかな、今と同じように。
いや、待てよ。正面に1体で、その真後ろにもう1体というのもいいよね。お坊さんたちはまず不空羂索観音像を拝んで、裏に回るともう1体、そちらは鑑真さんの真の姿ということで、この2つのお像にご挨拶して、それから日々のお勤めに入っていったんだよ。きっとそうだ! 決まりだ!
ゆいまくん うーん、はしゃいでいるところ悪いんだけど、これらの時代が異なる史料をどう解釈して使っていくか、頭を冷やして慎重に考えないと。そもそも史料に「金色」ってあるのがまず引っかかるし…
百花さん あー、はいはい。そうだよね。そう言うと思ってました。
でも、この伝衆宝王菩薩像と伝獅子吼菩薩像、両方なのか、どちらか一方かはともかく、鑑真さんそのものとして礼拝されてきた可能性はあるってことよね。
これだけ壊れていてもなお温かい微笑みを浮かべる2体の菩薩像を見ていると、大変な苦労をしながら、目も見えなくなりながら日本へ来てたくさんのことを伝えてくれた鑑真さんが今まさにここに菩薩の姿で立ってるって、そんなふうに思えてくるよ。
(注)
*
不空羂索観音は十一面観音に次いで登場した変化観音。確実な(不空)投げ縄(羂索)を持つものを意味し、本来獲物を捕らえるための投げ縄を衆生のために用いてもれなく救い取る。姿は1面2臂、4臂、18臂、また3面2臂、4臂、6臂像などが経典に説かれる。日本では興福寺南円堂像など1面8臂像が多いが、実はこの姿は経典にない。しかしその姿は「大自在天の如し」とあり、1面8臂である大自在天(ヒンドゥー教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもの)を念頭につくられたのではないかと考えられている。1面4臂像(伝獅子吼菩薩像)は経典に説かれる姿であるが、1面6臂像(伝衆宝王菩薩像)は経典には見えない。しかし外国には少数ながら作例があり、また1面6臂の大自在天の図像も存在することから、この姿の不空羂索観音像もあり得たともされる。
** 豊安は三河国(現在の愛知県)出身。金堂をはじめ唐招提寺伽藍の整備につとめた如宝の弟子で、唐招提寺長老(住職)を継ぐ。初期の唐招提寺を直接知る人物から話を聞くことができた年代の人であり、羂索堂に関しても管理する立場にあったので、その著述内容は貴重なものと言える。ただし、あくまで唐招提寺の興隆と鑑真の顕彰という目的があって書かれたものであるということには留意すべきである。
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伝衆宝王菩薩像と伝獅子吼菩薩像は背中側にごく少量ながら漆箔(漆を下地にして金箔を貼る)の跡が残っているとして、もともと素木(しらき)像ではなく、金色の像であったとの推定もある。また、黄色っぽい色を全体にかけてより檀像に近く見せようとしたとの見たてもある。実際のところ、現状から当初の仕上げを推定するのは非常に難しい。檀像の代用材としてカヤを用いたという文脈で考えると、素木の像としてつくられたと考えるのが妥当ではないかとも思われる。
**** 『唐大和上東征伝』には、鑑真はしっかりと足を組んで西に向かって座って亡くなったとあり、経典の記述を引きつつ、初地に入っていたと述べている。初地とは菩薩としての10段階の最初の境地のことである。『七大寺巡礼私記』には、ある書物によればとして、鑑真和上は第2段階の菩薩の境地に達しており、唐の大福光寺で説法をしていた時、三目六臂の不空羂索観音の姿を現したと書かれる。

せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅