10ー3 百花、唐招提寺の空気に鑑真さんの思いを感じ取る

講堂
講堂


百花さん 鑑真さんがものすごーく苦労して日本に渡ってきたのはわかったけど、伝えてくれた教えってどういうものなの? 日本に仏教が伝わったのはずっと前でしょ。改めて伝えるようなことがあったということなのかな。

ゆいまくん 鑑真は淮河(わいが、黄河と長江の間にある大河)と長江の間の地域で随一といわれるほどの高僧で、仏教経典に非常によく精通し、また薬についての知識もたいへん豊富だったそうだよ。
 特に重要なのは、天台宗と戒律の教えを受け継いでいたということだね。
 当時の中国では戒律の研究と実践を行う宗派として南山、相部、東塔という3つの系統があり(律の三宗)、鑑真は南山宗を受け継ぐともに相部宗の流れも汲み、さらに日本に伝えた典籍には東塔宗関係のものも含まれていて、とにかく戒律の教えに関するエキスパートのような人だったんだ。

百花さん 戒律?

ゆいまくん 仏教徒が守らなくてはならない決まりのことだよ。「戒」と「律」を合わせて、戒律 *。
 は自らの心に打ち立て自分自身で守っていく決まりごと、は教団を維持するための約束ごとをいうんだ。正式な僧になるためには、一定の儀式にのっとり、先生となる僧から戒を授かり、立ち会いの僧のもとでこれを守ると誓わなくてはならない。ところが、奈良時代の日本は仏教伝来から200年もたつというのに、いまだ僧尼となるための正式な場において戒律を授ける際に必要な高僧の人数が揃わないという状態だったんだ。

百花さん この頃って聖武天皇の時代なんだよね。聖武天皇といえば、奈良の大仏でしょ。つまり仏教を国の柱みたくしていこうとしていたんだよね。なのに、それを担うお坊さんの養成のあり方がまだ不十分だったなんて、これは大ピンチ図鑑級の大ピンチだね。それで、鑑真さん来てくださーいってなったわけか。

ゆいまくん 要するに鑑真の来日は、戒律の教えの伝来と僧尼を養成するための制度の確立という2つの面で重要な意味をもっていたんだ。
 奈良に着いた鑑真は東大寺に「戒壇」すなわち戒を授けるための施設をつくり、儀式を整備し、僧への授戒を行い、また孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后 ** ら大勢の人たちにも戒を授けていったんだ。そして第一線を退いたのちには、唐招提寺を開いて後進の育成につとめたんだ。

百花さん 鑑真さんが日本に来たのがもう晩年。そうするとこの唐招提寺と開いたのは最晩年ってことね。
 じゃあ、唐招提寺っていう名前だけど、これにも意味があるの? 鑑真さんを唐から招いたから「唐招」だよね。じゃあ「提寺」は?

ゆいまくん それは切り方が違っているね。「招提」で1つの言葉なんだ。
 「招提」は「四方」を意味し、あらゆるところから人が集い学ぶことをあらわす言葉とされているんだ。唐から伝えられた戒律を学ぶために集う「まなびや」、つまり律学研究道場っていうことだね。

百花さん このお寺は鑑真さんが生涯の最後にその意志や理念をぐっと詰め込んでつくったものなんだね。そういえばここの空気、ピンと張っているっていうか、そういうのが感じられる気がしてきたよ。

ゆいまくん そうした理念のもとに発足したお寺なので、僧が学ぶ場所である講堂が金堂に先がけて整備されたんだ。講堂は、金堂の後ろにある建物だよ。

百花さん こちらが講堂ね。力強い金堂に対してゆったりとたたずんでるって印象ね。

ゆいまくん 実はこの講堂、もと平城京の心臓部である平城宮内で東朝集殿として使われていた建物なんだ。唐招提寺が開かれたのが759年なんだけど、ちょうどそのころに平城宮の改修があって、それを機にこの建物が下げ渡されてきたと考えられているんだ。もともと出勤してきた役人たちがいったんこの建物に入って衣服を整えたりする場所だったので、僧たちが集まる講堂に転用するのにはもってこいの広さというわけだ ***。

百花さん できたばかりの唐招提寺がすぐにその活動を始められるようにと朝廷が配慮し、移築させたということね。

ゆいまくん 今となっては奈良時代、平城宮で使われていた建物で唯一現存しているのがこの唐招提寺講堂なんだ。
 一方、金堂は鑑真の死後にはなったけれど、奈良時代の末までには完成をみた。奈良には古寺がたくさんあるけど、奈良時代の金堂と講堂が揃って現存するのはここ唐招提寺だけなんだよ ****。

百花さん 唐招提寺、すごっ…
 堂内に高い台が2つ、向き合うようにして置かれているけど、これは?

ゆいまくん 論議台だよ。1つは講義を行う僧が登り、もう1つはそれを聴く側の僧の代表者が上って質問するためのものなんだ。鎌倉時代のものだけど、このお寺が仏の教えをよく学び、議論を通して深めていくことを大切にしていたことがよくわかるよね。

百花さん 鑑真さんの厳しくも温かいご指導のもとで、たくさんのお坊さんがこの講堂でお話を聞いたり、互いに学びあったりしたのね。
 お堂の真ん中にはおっきな仏像が座っているけど、2019年に国宝指定されたはこの像?

ゆいまくん こちらは講堂本尊の弥勒如来像だよ。鎌倉時代後期につくられたもので、とても大きくて力のこもったお像ではあるけれど、国宝指定ではないんだ(重要文化財、像高280センチを超える坐像)。その斜め前に立つ2体の像が国宝指定された仏像だよ。

(注)
* 唐招提寺の執事長をつとめた徳田明本氏は戒律について次のようにたとえている。「戒律の堤によって禅定の池ができ、はじめて悟りの知恵の水がたたえられるとする。戒の堤なしには、禅定の水の静かなこともなく、悟りの知恵が発することがない。」

** 鑑真が来日した754年には孝謙天皇の治世となっており、聖武天皇は位を譲って聖武上皇、光明皇后は光明皇太后となっていた。

*** 平城宮は平城京の大内裏で、天皇の住まいである内裏、国家としての儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う建物群からなる。朝集殿は朝堂院の一番南にある2棟の建物(東朝集殿、西朝集殿)で、出仕する役人の控室のような役割を持つ建物だった。東朝集殿は唐招提寺に移築された時に改造が加えられ、鎌倉時代、江戸時代にも改築されているが、かつての宮殿建築の雰囲気も残している。

**** 唐招提寺以外では、法隆寺東院の夢殿、伝法堂(ともに奈良時代)がそれぞれ金堂、講堂に当たると考えれば、奈良時代の金堂、講堂が揃って伝来していると言える。