10ー2 鑑真さん、日本へ

百花さん 鑑真さんは中国の唐っていう国のお坊さんだったのよね。
ゆいまくん 長江下流に栄えた揚州という町の出身なんだ。中国の地図、思い浮かべられるかな。大雑把に言うとね、海寄りで南北では真ん中あたりといった場所だよ。生まれたのは688年で、若くして仏の道へ入り、ついには高い学識と徳を備えた僧として大いに名を知られる存在となったんだ。
その鑑真が揚州の大明寺というお寺で律を講じていた時のこと。742年だから、日本では言うまでもなく奈良時代の中ごろ、聖武天皇の時代だね。栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)という2人の日本僧が訪ねてきた。彼らは鑑真自身をというよりは、お弟子を日本に派遣してほしいと願ったんだ。ところが、その場にいた鑑真の弟子たちは皆尻込みをするばかり。やがて1人が口を開いた。「日本は遠く、無限の大海が広がり、100人に1人も着くことは難しいと聞きます。せっかく人として生まれ、中国に生まれましたが、仏教の修行もまだ半ばなのです。」 つまり、行きたくない、行くことはできないっていうことだね。他の弟子たちも同じ思いだったんだろう、みんな沈黙している。すると鑑真が口を開いた。「では私が行こう。仏法のため、どうして命を惜しむことがあろうか
*。」
百花さん かっこいー! ゆいまくんの話も、いつもより、いい感じじゃないの。今、ちょっと鑑真さんが乗り移ったみたいだったよ。よっ、ゆいまくんのちょこっと鑑真!
ゆいまくん それって褒めているのかな。それとも…
百花さん いいから先に進もっか。それでそれで?
ゆいまくん 鑑真の一声で、多くの弟子も行動を共にすることになった。ところが渡航の計画は何度も挫折する。実は唐では出国に許可が必要で、鑑真ほどの高僧が国を出るというのは皇帝が許可しない。そうすると密航ということになるが、鑑真は弟子ばかりかさまざまな技術者も、また経典類や仏像なども持って行こうとするからその動きは目立つし、しかも弟子の中には鑑真に行ってほしくないので密告する者も現れる。出航以前にバレたり、出航できても難破したり漂流したりと、何度も渡航に失敗してしまうんだ
**。
百花さん ひー、元祖ミッション・インポッシブルだ。
ゆいまくん 計画は5度挫折し、その間に日本から来た2人の僧のうちの1人、栄叡は亡くなってしまうんだ ***。しかし6度目でついに成功、754年に平城京に到着した。その時には鑑真は60歳代の後半になっていた。以後、日本で10年にわたって教えを伝え、763年に亡くなったんだ。
百花さん ということは、日本行きを決めたのは50代半ばってことね。そろそろ引退して温泉にでも行ってゆっくりしたいなあって思ってもいいような年なのに。そこから10年以上もの年月をかけて日本まで来てくれたんだ。すごいなあ。
ゆいまくん さあ、唐招提寺に着いたよ。門を入って真正面に建っているのがお寺の中心、金堂だ。この建物は奈良時代の終わり頃、鑑真の弟子の如宝(にょほう、鑑真に従って日本に来た24人のうちの1人)によってつくられたものなんだ ****。
百花さん 鑑真さんの死後もその意思はお弟子さんたちに受け継がれていったのね。
(注)
*
鑑真の伝記は弟子の思託(したく)が『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』としてまとめたが、現存しない(わずかな部分だけ残る)。思託は鑑真の第1回渡航計画から一貫して付き従った2人の僧のうちの1人(もう1人は日本僧普照)。思託の著書をもとに淡海三船(真人元開)がまとめた『唐大和上東征伝』が伝わっており、鑑真来日の基本史料となっている。そこには鑑真ら一行の動きが実に生き生きと描かれており、鑑真が渡日を決意し表明する場面はまさにそのクライマックスとなっている。ただし、その元となった思託の著書ではもう少し簡潔な表現であったようだ。
** 1、3、4回目は密告などのために出航以前に官憲に拘束されるなどして失敗。2回目は船出するが座礁。5回目は南方に吹き流されて漂着。
*** 栄叡は美濃国(現在の岐阜県)出身。ともに興福寺僧であった普照とともに733年に遣唐使船で中国に渡る。749年に唐で客死。普照は出身地不明。鑑真ら一行と同じ遣唐使船(ただし乗ったのは別の船)で日本に戻り、帰国後も鑑真が伝えた戒律の定着のために努力した。
**** 如宝(安如宝)は西域(中国の西側の地域)の出身といわれる。若くして鑑真の弟子となり、正式に僧侶になったのは日本に来てから。鑑真の死後、唐招提寺の伽藍整備に尽力した。なお、唐招提寺金堂の創建年代は長く議論されてきたが、年輪年代法によって781年に伐採された材が用いられていることが知られ、それ以後の建立とわかった。
せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅