10-10 ゆいまくんの追加講義-藤原清河の無事を祈って寄進された羂索堂
伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像が本来まつられていた可能性のある羂索堂。早くに失われてしまったのだけど、唐招提寺で最も早い時期に設けられたお堂の1つとして、その歴史を語る上で避けては通れないとても重要な建物だ。
この羂索堂、藤原清河(きよかわ)という貴族の家族がその邸宅の一部を唐招提寺に寄進して誕生したんだ。清河の寄進じゃないよ。清河の家族が寄進したものなんだ。どういうことかというと、その時清河は留守、日本にいなかったんだ。実は藤原清河は遣唐使の一団を率いて唐に渡り、ついに戻って来ることはなかった。その留守を預かる家族が唐招提寺に寄進を行い、それが羂索堂や鑑真が住んだ部屋を含む僧坊の一部となった。初期の唐招提寺にとって大切な祈りの場や鑑真や弟子たちの住むところがこれによって確保できたわけだから、この寄進はとてもとても重要な行為だったと言えるだろう。
しかし、それにしてもなぜ清河の家族は唐招提寺に寄進を行ったのだろうか。
清河邸は唐招提寺のすぐ北にあった。でも、もちろんご近所さんだからというだけじゃない。実は清河は鑑真の来日と関わっているんだ。
藤原清河は平城京遷都(710年)の立役者であった藤原不比等の孫だ。聖武天皇、孝謙天皇のもとで順調に昇進を重ね、750年に新たな任務が与えられた。遣唐大使に任命されたんだ。翌々年、清河は副使2人らとともに唐へと向かった。
さてその頃、鑑真はといえば、5度の渡航に失敗し、愛弟子の死や自身の失明、また渡日を要請してきた日本僧の1人である栄叡までも病死し、まさに手詰まりといった状況にあった。そんな時に遣唐使がやってきたわけだ。清河らは鑑真のもとを訪れ、遣唐使船への乗船を要請、鑑真もこれに応じ、港へと向かった。
ところがである。出航直前になって清河は態度を急変。なんと鑑真一行を下船させてしまった。おそらく唐皇帝の不興を買うことを恐れたのだろう。さあ、万事休すか。
そこに手を差し伸べたのが遣唐副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)で、一存で鑑真ら一行を自分が乗る船に乗船させることにしたんだ。古麻呂は豪胆な性格で、鑑真らを下船させた清河の行動に義憤を抱き、この思い切った行動に出たと言われている。あるいは深読みをするなら、遣唐大使が鑑真の密航を助けたとなると国ぐるみで唐を裏切っているみたいなことになってしまうから、それを避けるためにあくまで古麻呂が勝手にしたことにしようといった話が清河と古麻呂の間でついていたのかもしれない。とにかく、鑑真らは古麻呂の乗る船で唐を離れたんだ。
当時の遣唐使船は通常4隻で船団を組む。大使である藤原清河は第一船、大伴古麻呂は別の船に乗って、ともに沖縄まで来た(他の1隻も)。もしも鑑真の乗船を清河が事前に知らなかったとしたら、ここで初めて知ったことだろう。やがて3隻は出航。ところがこのあと第一船は座礁した上、南方へと吹き戻されてしまったんだ。その一方で、古麻呂の乗る船は鹿児島を経て、無事平城京に着くことができた。なお、他の2隻も帰国できたので、結局日本に戻れなかったのは大使の乗る第一船のみ。もし鑑真が第一船に乗っていたら、この時も渡航失敗となり、結局来日できなかったということになったかもしれない。
こののち清河は名前を河清と変えて唐の朝廷に仕え、かの地で亡くなるんだ。
もっとも、日本に戻れた大伴古麻呂はその後政争に巻き込まれて悲惨な死を遂げるので、そうすると帰れた古麻呂が幸いだったとも言えず、また、この政変の影響で国に没収された土地がのちに下げ渡されて唐招提寺となるので、いやはや、歴史というものは本当に一筋縄ではいかないものだと感じるよ。
清河の家族から邸宅の一部が寄進されたのはいつのことなのか、残念ながら記録は残っていない。しかし、寄進された建物の中に鑑真の住房が含まれているということは、当然鑑真死去以前のことということになる。僧坊と羂索堂の寄進が同時期に行われたと想定するならば
*、羂索堂が開かれたのは唐招提寺の開創から鑑真の死までの間、すなわち759年から763年の間ということになる。そして伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像(のどちらかまたはその両方)が羂索堂に安置された不空羂索観音像であったとするなら、その造像年代もまたこの頃となる。唐招提寺に伝えられている像の中でも鑑真在世中までさかのぼることができる、まさに屈指の古像ということになるわけだ。
鑑真来日の経緯について、清河の留守家族がどこまで知っていたのか、どう理解していたのかはわからないけど、清河が率いた遣唐使の船団で来日した鑑真とその鑑真が開いた唐招提寺に対して格別の縁を感じていたのだろうね。だから清河の無事や日本への帰還を祈っての喜捨という意味を込めて、邸宅の一部を唐招提寺に寄進し、その草創を助けたのだろう。
(注)
* 羂索堂の施入(寺や僧に帰依し、施物を納めること)の時期については、清河家族が清河の死を知った779年以後、あるいは清河家族が邸宅を寺とした792年まで下げて考える説もある。
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