<仏教で平和を考える>
5話 やれること、できることがあるなら(2)
「【七仏通戒偈】しちぶつつうかいげ 過去七仏が共通して受持したといわれる釈尊の戒めの偈で、現在も仏教徒に共通して読誦される。…『諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教』(もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善をなして、心を浄くせよ。これが諸仏の教えである)。」
*『佛教語大辞典』上(中村元著、東京書籍、1975年)より引用。p586
釈迦の死後、釈迦の前にも悟りを開き、教えを伝えた6人のブッダが存在したという信仰が生まれた(日本ではあまり広がらなかったが)。釈迦と合わせて「過去七仏」という。上に引用した「七仏通戒偈」は過去七仏のうちの6番目に登場したブッダの教えとされ、また過去七仏すべてに通ずるもので、さらに、あらゆる仏教徒にとって大切な教えとされた。なお、「偈(げ)」というのは調子よく整えられた詩のような文章のことをいう。
私がこの教えにはじめて触れたのは、室町時代の禅僧、一休宗純の書を通じてであった。もう随分昔のことで、東京国立博物館の常設展示室だったように記憶する。「諸悪莫作、衆善奉行」。雄渾な掛け軸の字を前に、しばらく動くことができなかった。
しかし、字の力強さには圧倒されたものの、言葉の意味はピンと来なかった。その時はまだ、これが「七仏通戒偈」の前半の8文字であることは知らなかったが、「悪をなすな、善をなせ」ということを意味していることはわかった。
しかし、悪とは、善とは何であろうか。何が悪か、善かは人によって、立場によって、また時代背景によっても変わるものだ。だいたい、世界は善か悪かといった二項対立式で理解できるほど単純ではあるまい。今となってはたいへんお恥ずかしいが、私が抱いた感想はそのようなものだった。
ただ、その時の自分を今も思い出せるのは、簡単にやり過ごしはならない、忘れ去ってはいけない何かがそこに込められているように思えたからだったかもしれない。
ところで、前回(4話)、「おてらおやつクラブ」について書かせていただいた。その続きのような話になるが、この「おてらおやつクラブ」の活動を始めた奈良県の安養寺の住職、松島靖朗さんは次のように語っている。
「食の支援なので、この活動を始めたころに『もしなにかトラブルがあったらどうするんですか』と詰め寄られましたが、そんなことはなにも考えていませんでした。今は責任の所在を明確にしてやっていますが、とにかく食べられない子どもたちに届けたいという思いだけで始めました。…」(『コンフォルト』157号、中野純「この星の暮らしかた」Vol.6、2017年8月)
確かに、直接知らない誰かに食べ物を送ることは、食中毒や食物アレルギーといった深刻な問題が関係してくる可能性もある。だから慎重にすべきだという意見、まったくもっともである。しかし、松島住職の「とにかく食べられない子どもに届けたい」という一途な心が、現在の「おてらおやつクラブ」を生み出す力となったのはまぎれもない。住職が踏み出した一歩は、まさしく「七仏通戒偈」の「悪をなさず、善をなし、心を浄くする」という言葉そのものであると思う。
一方、かつて私が思ったように、何が悪か、善かは変化する。悪をなすな、善をなせと言われても、善、悪が変わってしまうようなら、やりようもない。このような考え方は、物事を斜(はす)に見て、何もしない道である。七仏通戒偈はその「何もしない」の先へ、誰もが世界を信頼して生きられるような社会を目指し、できることがあるならばと背中を押してくれる教えである。
(追記)
「七仏通戒偈」の内容は、最古の経典の1つとされている『ダンマパダ』183偈に見える。「自分の心を浄め、もろもろの悪きことをなさず、もろもろの善いことを行う。これがもろもろのブッダの教えである」(『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』、今枝由郎訳、光文社古典新訳文庫、2023年)
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