<仏教で平和を考える>
0話 はじめに
昨年(2025年)、スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんらがガザ地区の人々に支援物資を届けるために出航した時、その一行に日本人が1人加わっていると報じられた。その方の勇気と行動力に思いを馳せ、非常に強い感銘を受けた。
もちろん、誰もがその方のように行動することは難しい。私にしてもそうだ。お恥ずかしいが、勇気もなく、特別な技能もなく、お金もなく、人と繋がる力も弱い。活力や集中力、継続して行う力は皆無ということもないが、人に誇れるほどのものはない。
しかしそのような者であっても、何もできないということはないはずだ(追記へ)。たとえごく小さなことであっても、多くの人がその小さな1歩を踏み出すことで、遠く遠く感じる平和という理想に少しでも近づけるとそう信じたい。
さらに思う。危険を承知で船団に乗り込むような大きな勇気と、小さくても多くの人がそれぞれ行う活動は、互いに阻害しあうものではない。むしろそれらが両輪のようにかみ合えば、平和への道にとってこれほど頼もしいことはないと言えるのではないか。
さらにさらに思う。平和への小さな行為も、その人らしい手段、その人に適した方法、無理を重ねず続けられるやり方というものがあるのではないか。
では、私の場合、どんな行動ができうるか。
そこで思い至ったのが、この「仏教で平和を考える」コラムである。
私は仏教学を専門に学んだ者ではないが、仏像を拝観していくうちに、仏教の考え方に学ぶことが多かった。仏教とて特定の側に立ち相手を敵と名指しし、調伏させるといった使われ方をされたことがなかったと言えば嘘になるが、概して平和を大切にする教えであると言うことができる。本来、バラモン教の生まれおちた階級を絶対とする教えに反対するものとして登場しているので、「生まれではない、どう生きるかだ」という考えが根底にある。したがって、ナショナリズムにとらわれることなく考える基礎となりうる。
そうした仏教の中にあるなにがしかを紹介できればと思う。
以上が本コラム開設の理由である。これが平和へ向けての小さな道しるべになるならば、これほどうれしいことはない。
(追記)
いつでも誰でもできる平和のための活動としては、次のようなことが考えられるだろう。例えば…
(インターネットにアクセスできる環境があれば)国際人権NGOの呼びかけに応じてインターネット上での署名に参加する。
(もし今月使うお金に若干の余裕があれば)国際緊急医療援助を行うNGOに寄付する。同じ買い物であれば、少し高価であってもフェアトレード製品を購入する。
(選挙が実施され、その選挙権を持つならば)特定のサイトに頼らず、しっかりと比較し見極めて、平和の実現のための意識を高く持つ候補に投票する。
このほかにもいろいろなことが考えられるだろう。例えば、スウェーデンの小学校高学年で使われている社会科の教科書には「あなたも影響を与えることができる」という項目があり、参考になる。(『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む 日本の大学生は何を感じたのか』、新評論、2016年)
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