<仏教で平和を考える>

3話 言葉を選ぶ

 

「比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること、麁悪(そあく)な言葉を離れること、および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。」
*『阿含経典2』(増谷文雄編訳、ちくま学芸文庫 、2012年)より引用。p173

 


南伝の相応部経典の中の「道相応、分別」と題された一節からの引用である。


釈迦は悟りに至る実践として「八正道(八聖道、八支の道)」を説いている。
八正道とは、正見(正しい見方)、正思(正思惟、正しい思い)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生き方)、正精進(正しい努力)、正念(正しいことに念いをこらす)、正定(正しいことに心を専注する)の8つである。これらのすべてについて「道相応、分別」から引用するなるとかなり長くなる。ここでは「正語」について述べた部分を載せた。

お恥ずかしい話であるが、はじめて「八正道」という教えにふれた時、私が思ったのは次のようなことであった。8つというのはいかにも多すぎる。「正く見て、考えて、行動するべし」で済むだろうに。ははん、お釈迦さまやそのお弟子さんたちは、「四諦」「八正道」といい感じの数に形式を整えて物事を考えたり教えたりすることが好きだったんだなと。

しかし今はそう思っていない。
どうやらお釈迦さまは、「正しさ」をいくつもいくつも積み重ね、一歩一歩進むことを言っているらしい。そして、その入口となっているのは「正しく見ること(正見)」で、そこから順に進んでいくもののようだ。そこには、こうすればショートカットができて効率がいいというような考え方は入る余地がない。また、極端な考えに走って分かった気になるなどということは論外である。大切なことは、視野を広くとり、総合的に見て、考えて、言葉を選び、行動し、心に落とし込んで、怠ることなく進むことなのである。

さて、冒頭の「正語」についての引用だが、偽りの言葉を用いないこと、人を傷つける言葉、また汚く雑な言葉を使うことがないようにと述べられている。
私たちが生きているのは、こうした偽りの言葉、人を傷つける言葉、汚く雑な言葉がまさに溢れかえっている社会である。注目を集めるために、あるいは面白半分にこうした言葉が日々発信され、広められている。

「正語」をはじめとする「八正道」は、もちろんお釈迦さまが悟りへの道として説いているものであるが、これを平和への道としても読むことができそうである。
偽りの言葉、人を傷つける言葉、汚く雑な言葉は対立をあおる。心が荒む。人を追い詰める。ついには平和への道を遠ざける役割を果たす。
まずは自分自身がそうした言葉を使わない、広めないというところからはじめようではないか。


(追記)
相応部経典の「道相応、無知」という一説には、八正道の出発点として「智慧」をあげ、「智慧ある者となれば、それにしたがってまず正しい見方が生じる。正しい見方が生ずれば、それにしたがって正しい思いが生ずる。正しい思いが生ずれば…」と、順に八正道の1つ1つを踏まえながら進んでいくことが説かれている。(『阿含経典』2、p162)
この正しく見る(正見)であるが、原語を忠実に訳すと「総体的におしなべて見(観)る」の意味であるという。(『ブッダの教え 真訳・スッタニパータ』、前谷彰訳・解説、講談社、p156)

 

 

 

 

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