<仏教で平和を考える>
2話 1つ前に戻って
「さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。ーすなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。」
*『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村元訳、ワイド版岩波文庫、1991年)より引用。p36、37
これは、南伝の「ダンマパダ」の一節である。最も早くに成立した経典といわれるもので、北伝では「法句経」という。ただし「ダンマパダ」と「法句経」は、内容すべてが対応関係にあるわけではないらしい。
1行目の「帰依(きえ)」は、やや耳なれない言葉かもしれないが、仏教でよく用いられ、「心から信じて自らのよりどころとする」といった意味である。
2行目「ーすなわち」以下の(1)~(4)は「四諦」といわれる釈迦が説いた4つの真理のことである。
これらを踏まえて上の文章を少しだけ直すと、「ブッダ、その教え、ブッダのもとに集まる修行者たちを心から信じる者は、正しい智慧をもって4つの真理、すなわち四諦を会得する」となる。
ここからは四諦について、述べていきたい。若干煩雑で長くなるが、お付き合いいただければ幸いである。
四諦。いかにも難しそうな言葉であるが、実は高校の社会科教科書にも載っている。授業で聞いた、テストのために覚えたという方もいるのではないか。
「諦」は「あきらめる」ではなく、「あきらかにする」という意味、すなわち「真理」をさす。それが4つあるということ。つまり「4つの真理」の意味である。
4つにはそれぞれ名前がついていて、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」という。
まず「苦諦」だが、これは「人生は苦である」という真理である。
人生は苦? いや、時代劇のテーマソングにもあるが、人生には楽も苦もあるものだろう。すべてが苦ということはあるまい。しかし、釈迦は「苦だ」という。悲観的すぎないか。しかし考えてみてほしい。どんなによい人生でも終わりは来る。素晴らしい出会いも、別れが来ないということはあり得ない。ずっと若く、健康でと願っても、そうはいかない。だから「苦である」(苦は「ままならない」という意味でもある)。
第2は「集諦」。原因と結果があるのでそれをたずねよという意味である。人生は苦であるが、その苦にも原因があるというのである。
第3は「滅諦」。その原因をなくせという意味である。ここが釈迦の悟りの大いなる特色であるように思う。苦そのものをなくすことは難しいが、その原因を探り、そちらをなくすようにする。苦の原因がなくなれば、苦もなくなるというのである。
たとえば、いつまでも若く健康であり続けたいと思う。そのように願う人は多いだろう。しかしそれは無理というものである。なぜなら(若くして命を失うという不幸に見舞われない限り)人はやがては老いる。すべては時とともに移り変わっていくのであって、自分だけその例外となることはできない。それにもかかわらずずっと若くありたいと強く強く執着するなら、すべては移り変わるという現実世界の大原則との間にズレができ、そこに苦しみが生じる。このようにして苦の原因を探索し、その原因をなくすことを考える。つまりは、執着心を取り除くことが苦を脱する道であるということになる。
最後は「道諦」。
人生は苦であり、苦にも原因があり、その原因を滅すれば苦もなくなると、ここまでわかったとしても、それで即「悟り」というわけにはいかない。もし理屈がわかればそれが悟りになるというなら、授業で四諦を習った生徒は全員悟っているということになってしまうが、もちろんそんなことにはならない。執着心を取り除いて苦を滅するところまでいくために、釈迦は8つの道(修行方法)を提示する。これを八正道(八聖道)という。
やや長くなってしまったが、以上が四諦である。
釈迦は悟りを得る以前、何年もの間苦行に明け暮れたという。自らの肉体を極限まで痛めつけることで、苦を乗り越えようとしたのである。それは苦そのものを力わざでねじ伏せようと格闘する凄まじい日々であったろう。しかし最後には釈迦は苦行を離れ、苦の正体は何か、なぜ生じるのかをその原因にさかのぼって究明するという道を見出し、苦の消滅を成就させたのである。
では、平和への道を考える時に、このことはどう活用できそうか。
今、争いがあるとする(実際に世界は争いに満ちている)。緊急にまずそれを止めて、これ以上の犠牲が出ないようにすることが第一である。そして、その上で? 日本には「水に流す」という言い方がある。ある意味、潔い考えである。「過ぎてしまったことを思うより、これからどうするかを考えよう。」 なるほど、それもそうだという気がしないでもない。
しかし本当にそうだろうか。これまでのいきさつをすっ飛ばして、「共に未来を志向しよう」などと言っても、そこに本当の納得があるだろうか。争いは止むだろうか。
それよりは、1つ前に戻って考えよう。原因を探り、それを取り除く努力をしよう。それこそが平和へと続く道と言えるのではないだろうか。
(追記)
高校の社会科で、仏教についてその内容に踏み込んで教える科目は「倫理」である。どの出版社の教科書にも四諦についての記述がある。しかし「倫理」は選択科目であり、そもそも設置をしていない高校も多いかもしれない。「現代社会」という今は無くなってしまった科目でも仏教は扱われていたが、教科書によってその記述には濃淡があり、四諦の記述がある教科書、ない教科書があったように思う。
教科書は一般図書と違って取り扱う書店も限られており、見たいと思っても意外に見ることは難しい。しかし改めて見てみると、多くの発見がある。教科書の記述は現代を写す鏡であると言っても決して大袈裟ではない。
では見るためにはどうしたらいいか。各都道府県には「教科書センター」が設置されているので、そこに行くとよい。上野にある国際子ども図書館児童書研究資料室でも見ることができる。
*文部科学省・都道府県が設置する教科書センター一覧
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