6-2 阿倍氏のお寺の別所がのちの文殊院

文殊院の西南にある安倍史跡公園
文殊院の西南にある安倍史跡公園

 

百花さん 文殊院は、いつ、だれによってつくられた寺院なの?

ゆいまくん 文殊院にはその前身となったお寺があってね、崇敬寺(そうきょうじ、すうきょうじ)というんだ。お寺がつくられたのは奈良時代よりも前、7世紀の半ばから後半のことなんだ。

百花さん 7世紀! 古っ! じゃあ、今から1300年以上も前ね。どんな時代だったのかな。

ゆいまくん 7世紀におこった重大事件といえば、何といっても大化改新だよね。

百花さん 大化改新! 懐かしい響きね。えっと、たしか…中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我氏を倒して、新しい政治を目指したのよね。

ゆいまくん おっ、さすがに知っていたね。中大兄皇子らによるクーデタが645年、そして、翌年に発足した新たな政府で左大臣という重職についた人物が、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ、阿倍内麻呂ともいう)なんだ。崇敬寺を開いたのは、この阿倍倉梯麻呂とされていて、そのため崇敬寺は別名、安倍寺ともよばれたんだよ。その場所は、これから行く文殊院の西南で、今は遺跡公園となっていてね、発掘調査の結果、塔と金堂が東西に並んだ立派な伽藍だったとわかっているんだ。
 当時、阿倍氏(のち安倍氏を名乗る)は大豪族だったけど、時代が進むにつれて新たに登場してきた藤原氏にとってかわられていくんだ。そうした時代背景のもと、平安時代以後、崇敬寺は東大寺の末寺となる。末寺というのは、本寺(この場合東大寺)の支配のもとに経営を行う寺院のことだよ。崇敬寺としては、もっとも関係の深い安倍氏の勢力が低下する中、東大寺の勢力下に入ることで、存続をはかったということだろうね *。
 東大寺末になる一方で、崇敬寺は寺の北東に別所を設けた。11世紀後半、崇敬寺の僧暹覚(せんかく)によって開かれた修行場を安倍別所といい **、これが今の文殊院へとつながっていったと考えられているんだ。

百花さん 別所というのは、支店みたいなものよね。そういえば、京都の大原の寺もその頃、延暦寺の俗化を嫌った僧によって、その別所として開かれたんだったよね。崇敬寺の別所も、同じような流れでつくられたのね。

ゆいまくん 崇敬寺(安倍寺)と安倍別所(今の文殊院)は300メートルくらいしか離れていないから、延暦寺と大原に比べればよほど近いけどね。平地にあった崇敬寺に対して、今の文殊院がある場所は丘陵の端で、ちょっと高くなっているから、ほどよい距離感だったのかもしれないね。
 この2つは、しばらくの間は並存していたんだけど、崇敬寺本体は火災のために衰えて存続が難しくなり、別所に統合されていったんだ。安倍別所は崇敬寺の寺名を引き継ぎ、阿弥陀、薬師、大日、十一面観音、文殊などをまつるさまざまなお堂があったと記録されているけど、その中で文殊への信仰が他を圧倒するようになり、また江戸時代には寺運も傾いて他のお堂はしだいに失われて、文殊菩薩像をまつる本堂を中心とした文殊院として今日まで続いてきたんだ。

百花さん そもそも、文殊菩薩ってどんな仏さまなの?

ゆいまくん 知恵の仏として有名なんだよ。「3人寄れば文殊の知恵」ということわざにもなっているんだけど、聞いたことない?

百花さん あー、それって「3本の矢」的な?

ゆいまくん 「3本の矢」は戦国武将が子どもたちに結束するよう諭した話だから、ここでは関係ないね。
 たとえ1人ひとりは凡庸であっても、集まって考えることで、すぐれたアイデアを出すことができることを意味していて、そのたとえで、すぐれた知恵の持ち主として文殊菩薩があげられているんだ。
 菩薩といえば、まず観音菩薩、ついで地蔵菩薩が多くの信仰を集めてきたけど、文殊菩薩は、それらについで有名な菩薩なんだよ。経典の中では、他の菩薩を導く役割を与えられていることも多いんだ。

百花さん 知恵の文殊か。いいね~。私にも分けてもらいたい。分けてくれるかな? ねえ、ゆいまくん、どう思う?

ゆいまくん それは…わからないけど、とにかくこちらの文殊菩薩像はほんとうにすばらしい仏像なんだよ。名仏師、快慶の作で、このお寺が文殊信仰の場として近世、近代のきびしい時代を生き抜いこられたのも、この仏像あってこそなんだ。

文殊院の入口
文殊院の入口

 

百花さん 快慶って、あの有名な東大寺南大門の金剛力士像運慶らとともにつくった仏師だよね。前回の願成就院では運慶の仏像、で、今度は快慶がつくった像にお会いできるんだ。とても楽しみになってきた。

 ほら、ゆいまくん、もっと急いで!


ゆいまくん あれ、今までめんどくさそうに歩いていたのに、急にどうしたのかな。
 文殊院は少し奥まった、小高い場所にあるんだよ。

百花さん こちらが本堂ね。お堂の外側には、ものすごーくたくさん絵馬が懸けられている! これ全部、文殊さまへの願いごとなのね。みんな、よく知っていて、とっくに知恵を授かっていたのかな。しまった! 私、出遅れたー。

ゆいまくん 快慶作の文殊菩薩像は、本堂の裏手に接続してつくられている耐火スペースに安置されているんだよ。
 でも、ちょっと待って。こちらのお寺では、本坊の客殿でお抹茶をいただけるんだ。まずはお茶をいただき、気持ちを穏やかして、拝観をさせていただくことにしよう。

 

本堂前には絵馬がたくさんかけられている
本堂前には絵馬がたくさんかけられている

 

(注)
* 平安時代の崇敬寺における安置仏については、『本朝新修往生伝』に、 崇敬寺の僧永尋が臨終の際、極楽往生を願って丈六の釈迦像、文殊菩薩像などに向かって手を合わせたと書かれており、釈迦如来、文殊菩薩の像がまつられていたことが知られる。その文中で、文殊菩薩は数々の如来の悟りの導き手であるとして、その教化の力を取り立てて述べていることから、崇敬寺は古くから文殊菩薩の信仰が根付いた寺であったとわかる。

** 『本朝新修往生伝』によれば、暹覚は、若い時に身を持ち崩し、追われる身となり、発心して僧になり、1079年に安倍別所を開いたという。念仏によって往生を遂げたと書かれていることから、安倍別所は阿弥陀信仰を中心とする道場であったと考えられる。