6-6 傍流の仏師、快慶

 

百花さん これら像の作者は、仏師快慶なんだよね。
 快慶って、どういう人? 運慶らとともに東大寺南大門の金剛力士像をつくったんだよね。修学旅行で見たけど、とっても大きかったよ。運慶と快慶って、名前からしてコンビっぽいし、一緒に仏像をつくっているんだから、仏師仲間なんだよね。

ゆいまくん 運慶、快慶はその活躍期がほぼ重なりあっていて、ともに康慶の弟子と考えられているんだ。つまり兄弟弟子の間柄だね。ただし、運慶が康慶の実子でもあるのに対して、快慶はそうではないんだ。
 大体、快慶という人については、運慶に比べてわからないことが多いんだ。生まれた年、どういった階層の出なのか、妻子はいたか、また、いかにして康慶一門として仕事をするようになったのかなど、彼個人に関することでわかっていることは、ほとんど何もないと言っても過言ではないんだ。

百花さん 有名なのに、実はあまりわかっていないってこともあるのね。でも、何かしら彼について知る手がかりはあったりしないの? もったいぶらないで、話してよ。

ゆいまくん 別にもったいぶってはいないけど… そうだなあ。
 快慶は、活躍期の初期段階から後白河法皇など高位の人に関連する造像を手がけているんだ *。このことから、貴族階級と何らかのつながりのあるような出身ではないかと推測する人もいるんだ。
 ところが、一方でこんな事実もある。
 平氏による南都焼打ち後の復興事業で、1195年に東大寺大仏殿が落慶し、功績のあった仏師に賞が与えられた。快慶もその対象者だったのに、それを運慶の子に譲っているんだ **。おそらく、師の康慶の意向だったのだろうね。派の将来を担う次代のリーダーが早く高い位に登れば、一門にとってのプラスは大きい。だから、快慶に譲らせたんだろうね。その結果、快慶は無位(称号を与えられていない)に据え置かれたんだ。
 このことから、快慶は康慶の派の中で傍流の立場であったとわかるんだ ***。

百花さん それは…切ない話ね。運慶の子は将来を嘱望され、快慶はそうではなかったということね。

ゆいまくん 康慶のあとは運慶が継ぎ、さらにその子の湛慶が続いて、今ではこの一派は慶派と呼ばれているんだ。もちろん、快慶もその重要なメンバーとして、運慶らとともにノミをふるっているわけだけど、東大寺南大門の金剛力士像の造立の後は、運慶とは異なる道を歩んでいく ****。快慶は、運慶とは異なった様式を確立し、明快で調和がとれた、清らかな雰囲気をまとった像を数多く生み出していったんだ。
 『長谷寺再興縁起』は、快慶の人柄が語られる数少ない史料なんだけど、その中で快慶は「その身は浄行」と書かれているんだ。信仰心が厚く、清廉な人として尊敬されていたんだね。快慶は、仏との結びつきを願い求める仏教者、公家など、多くの人々との間に広く関係を築き、そのつながりを背景としながら造像活動を展開していった。結果、現存する快慶の仏像は数十点にもなり、その数は運慶をも越え、中世以前としては最も多くの仏像を残した仏師として、歴史に名前を刻んでいるんだよ。

百花さん 快慶は有名だけど、人物像は謎が多い。けど、ものすごーく偉大な仏師、ってか偉大な人だったんだね。
 ところで、この文殊菩薩と脇侍像が快慶の作だっていうことはどうして言えるの? えっと…、銘文があったり、納入品があったりするのかな。

ゆいまくん この像には、頭部内に銘文があって、納入品もこめられていたんだ。

百花さん 両方なんだ。すごいね。

ゆいまくん 快慶の名前は、銘文の方にあるんだ。「(アン)阿弥陀仏」と書かれているんだよ。

百花さん 安阿弥陀仏?

ゆいまくん この独特の名乗りは、「南無阿弥陀仏」と称していた重源(ちょうげん)から受けたものと考えられているんだ。

百花さん …??

ゆいまくん さっきも言ったように、快慶は1195年には造仏の賞を譲ったこともあり、無位であった時期が長いんだ。のちには法橋から法眼までのぼり、仏像に「法橋快慶」「法眼快慶」という名前を記すんだけど、それ以前の称号を持たない時期(無位時代)に制作した仏像には、「安阿弥陀仏(あんなみだぶつ、アンまたはアンアは梵字で書かれることが多い)」と記しているんだ。

百花さん 当時、快慶はアン阿弥陀仏と名乗っていて、その名前が文殊菩薩像の中にも書かれているのね。

 


(注)
* 快慶の現存作として2番目に古い醍醐寺三宝院本尊の弥勒菩薩坐像(1192年)は、同年に亡くなった後白河法皇を追善するために、醍醐寺座主の勝賢の発願によってつくられた仏像と考えられている。

** 快慶の譲りによって、運慶の子息の康弁が法橋となったとされる。

*** 運慶作の仏像と快慶作の仏像が異なる扱われ方をしたという例も伝わっている。
 1218年、運慶が京都に営んでいた地蔵十輪院が焼失した際、救い出された本尊の周丈六盧遮那如来像(運慶作)は、1223年に京都西北郊外の高山寺へと移されていった(仏像は現存せず)。これにともない、それ以前高山寺の本尊であった快慶作の半丈六釈迦仏は他寺へ移されている(この像も現存していない)。他にも事情があったかもしれないが、単純に考えれば運慶仏の方がより尊重されていたということであろう。

**** 快慶は慶派の一員だが、後半生は運慶一門から距離をとって、造像活動を行った。そのため、快慶とその後継者を「快慶流」とよぶことがある。
 なお、快慶には、行快、栄快、長快の少なくとも3人の弟子がいたことがわかっている。