4-3 入れ替わっていた四天王像

南円堂正面の拝所。掲げられている額には、西国三十三所の第9番札所であることが書かれる
南円堂正面の拝所。掲げられている額には、西国三十三所の第9番札所であることが書かれる

 
百花さん だんだんと列が進んできた! まだかな、まだかなー。もう少しだね。とっても楽しみになってきたよ。
 遠くから見たときにはそんなに大きくないかと思ったけど、近づくにつれて印象がどんどん変わってきた。ずいぶんと大きいお堂なのね。

ゆいまくん 一辺がおよそ6メートル40センチの正八角形をしているんだ。

百花さん 中尊寺金色堂が18畳くらいって言っていたよね。それよりはだいぶ大きそう。

ゆいまくん 畳を敷きつめたら、優に100枚以上、120畳くらいになるんじゃないかな。

百花さん そんなに! 中はどうなっているのかな。ホントにわくわくするね。
 それにしても、色鮮やかなお堂だね。柱の赤、窓の緑、壁は白、この3色が引き立てあっているのね。あ、屋根を支える木材の断面が見えているところには、だいだい色に塗られていて、おっ洒落~。正面には別の屋根が渡してあるね。カッコつけているのかな。

ゆいまくん あの部分は南円堂の仏さまを拝む人のためにつくられたもので、拝所というんだ。南円堂は全体に大きく、背も高くて、ちょっと間延びしたようにも見えたりもするけど、拝所がアクセントになって、それで締まって見えるんだ。

百花さん 真っ正面には大きな灯籠(とうろう)が置かれているんだね。

ゆいまくん あれはレプリカで、本物は国宝館で公開されているよ。9世紀前半、つまり南円堂がつくられた時代からのとても貴重な作品なんだよ *。

百花さん 国宝館にあるなら修学旅行の時に見たのかも。でも、まったく記憶にないや(てへぺろ)。
 興福寺は何度も火事になって平安時代までのお堂は1つもないというのに、灯籠だけは焼け残ったんだね。超貴重な生証人(?)っていう感じかな。
  
ゆいまくん その火事のことだけど、興福寺の歴史上、複数のお堂が焼けた大きな火災は10回あったんだ。その中でも特別に大きな火災、ほとんどすべてのお堂が焼け落ちるという大火災が1度あった。これから見に行く南円堂の仏像は、その大火ののちに再興されたものなんだよ。
 この火災は、南都焼打ち、つまり戦乱によるものなんだ。

百花さん 失火とかじゃあなくて、人の手によって焼かれたってことなのね。誰がやっちゃったとか、わかっているの?

ゆいまくん 焼いたのは平氏の軍勢だ。
 平安時代の末期、後白河法皇によって院政が行われていた時代のこと。はじめて武士出身として政権を担当した人物があらわれた。これが、言うまでもなく平清盛だ。

百花さん (小声で)おっと、またゆいまくんの「名調子」がはじまりそう。これ、突然来るのよね。

ゆいまくん 時は1180年。全盛を誇った平氏政権も衰亡の影がにわかに忍び寄り、源頼朝が東国で挙兵する。世に言う源平の争乱、治承・寿永の内乱のはじまりだ。
 政情が不安定化する中、興福寺などの寺院勢力もあからさまに平氏に従わない姿勢をとりはじめた。この頃の興福寺は僧兵という武力を持ち、自らの力で荘園などの権益を維持、拡大していたんだ。
 さて、その年の12月(現在の暦に直すと1181年1月)のこと、平氏はついに大軍勢を奈良へと送った。総大将は清盛の子、平重衡(しげひら)だ。夜陰に及んで、平家軍により火が放たれ、冬の乾燥に風の影響も加わり、たちまちにして猛火は南都の各寺院をなめ尽くしたんだ。これによって、興福寺は全山焼失、また、東大寺大仏殿も焼け落ちてしまったんだよ。

百花さん ひょえー。大変だ。都の貴族たちもさぞショックだったろうね。

ゆいまくん もちろんそうだったと思うよ。しかし、彼らはまもなく南都の復興について話し合いを開始した。興福寺は藤原氏のお寺であると同時に国家のお寺でもあるわけだから、どの堂を誰の責任で再建していくのか、朝廷で決めていったわけだね。各堂の仏像の担当仏師も決定され、南円堂の造像は康慶と決まったんだ。
 康慶は一門の仏師を率いて、1189年に、みごとに南円堂本尊の不空羂索観音像、法相六祖(ほっそうろくそ)像(法相宗の高僧の像6体)、四天王像を完成させたんだ。南円堂はその後も火災にあうが、康慶作の仏像は今日まで1体も欠けることなく伝わっている。これは本当に貴重なことと言わなくてはならないと思うよ。

百花さん なーる。南円堂とその仏像についての歴史がよーくわかったよ。わかったけど…なんかおかしいな。えーと、2018年に南円堂四天王像が国宝指定されたんでしょ。でも、堂内の仏像はすべて康慶一門によってつくられたものなのよね。なぜ国宝指定されたのは四天王像だけなの? 他の像は国宝ではないってこと?

ゆいまくん いや、本尊の不空羂索観音像と法相六祖像はすでに国宝になっていたんだ **。四天王像の指定によって南円堂の11体がすべて国宝となったということだね。

百花さん あ、そういうことね。ん? やっぱり変だよ。同じ時期、同じ一門の作なのに、四天王像だけ、国宝指定が遅れたってことだよね。不思議~。

ゆいまくん 実は、四天王像は入れ替わっていたんだ。

百花さん 今、サラっと言ったね。入れ替わり!? また、ややこしい話が来るぞ。

ゆいまくん 興福寺ほどの大寺院になると、四天王像も複数伝えられている。主要なお堂には四天王像が安置されているんだから、当然といえば当然だよね。
 興福寺の四天王像は、平安時代前期の一木造の像が2組、平安時代後期と考えられている像が1組 ***、鎌倉時代作が2組、合わせて5組が伝来しているんだ。

百花さん 南円堂の四天王像は、南都焼打ち後の造像だから、鎌倉時代の2組の四天王像のうちの1組ということになるね。それが別の1組と入れ替わっていたということ?

ゆいまくん そういうことだね。南円堂には別の鎌倉時代作の四天王像がずっと安置されていて、康慶一門の作と信じられてきたんだ。一方で、本来の南円堂四天王像は旧中金堂に安置されていた。どこかの時代で混乱が生じて、移動してそのままになってしまっていたのだろうね。
 この入れ替わりは、長い間気づかれることがなかった。
 中尊寺金色堂の各壇の仏像も入れ替わっていたよね。しかし、中尊寺の場合、何十年も前から入れ替わりが指摘されて、本来の安置について長年にわたって考察され、研究されてきたんだ。一方、興福寺南円堂の場合はというと、入れ替わりは見過ごされて来たわけだ。
 後から思うならば、南円堂の安置仏に関しては、疑問視もされなかったけれども、一体感がある、調和がとれているといった評価もなかったように思うんだ。もしかしたら、群像としての一体性がそれほどではないとして、制作を統括した康慶の力量は低く見積もられていたと言えるかもしれない。
 もちろん、具体的に入れ替わりを示唆する要素もないのに、むやみに疑いをかけるのは混乱のもとだし、何より、長年にわたって一具としてまつられてきたという事実は、とても重い。というわけで、入れ替わっているのに、お寺の方も研究者もそのことに気がついていないという状況が長く続いてきたんだよ。


(注)
* 総高236センチの灯籠で、銅でつくられ、鍍金されていた。羽目板に銘文があり、816年の作と知られる。形が整い、銘文の文字は格調高い。1964年、国宝指定。

** 本尊の不空羂索観音像は1952年に国宝指定。法相六祖像は1953年に国宝指定。

*** 平安時代初期の一木造の像2組は北円堂と東金堂に安置されている。平安時代後期作と考えられている1組のうち3体は寺外に流出し、持国天像は滋賀県のMIHOミュージアム、増長天像と多聞天像は奈良国立博物館の所蔵となっている(興福寺に残った広目天像も奈良国立博物館に寄託されている)。