4-2 四天王は「じぞうこうた」と覚えるべし

南円堂の正面。御法要の案内が立つ。その裏に灯籠が見えている。
南円堂の正面。御法要の案内が立つ。その裏に灯籠が見えている。

 

百花さん ずいぶん人が並んでいるけど、これはもしかして…みんな南円堂拝観に来た人たち?

ゆいまくん そうだよ。何といっても1年に1日だけだからね。中も人でいっぱいだと思うよ。

百花さん へぇー、みんな南円堂の仏像を見たくて、今日、ここに来ているんだ。こんなに多くの人をひきつけているってことは、さぞ、すばらしい仏像なんだろうね。よしっ、頑張って並ぶぞ。
 南円堂の仏像は運慶のお父さんがつくったってことは、鎌倉時代初期だよね。創建当初の南円堂の仏像は焼けてしまって、鎌倉時代に仏像がつくり直されたってことでいいのかな。

ゆいまくん そういうことだね。
 南円堂がつくられたのは平安時代前期。興福寺の主要なお堂としては比較的遅い時期の創建なんだ。創建時の南円堂は200年くらい建っていたんだけど、1046年の大火の時に焼けてしまった。仏像は救い出され、お堂も間もなく再建されたけれども、1181年 * 再び火災となり、この時には仏像も焼けてしまって、その後に再興された仏像が今、お堂にまつられているんだ。
 南円堂はさらに14世紀、18世紀にも焼けてしまい、今のお堂は、その後の再建なんだ。
 
百花さん じゃあ、鎌倉時代につくり直された仏像は、その後の火事の時には救い出されたんだね。よかったー。
 ところで、円堂っていうんだから、円形? そんなわけないよね。でも、普通の四角い建物とは形が違うみたいね。

ゆいまくん 一般的にお堂は上から見ると長方形か正方形だけど、このお堂はきれいな正八角形の姿をしていて、四角形に比べれば、円形に近いとも言えるから、円堂、八角円堂とも呼ばれ、この形はゆかりの人物を追悼するためのお堂に採用されることが多かったんだ。有名な例では、法隆寺の夢殿も八角円堂で、聖徳太子を供養する目的でつくられたといわれているんだよ。
 南円堂は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父、内麻呂(うちまろ)の追善のために創建したものなんだ。内麻呂や冬嗣は華麗なる藤原一門の中ではやや地味な存在かもしれないけど、その後の摂関家繁栄の基礎を築いた大切なご先祖さまとして、子孫からとても敬われていたんだよ。また、本尊の不空羂索観音像は藤原氏との関わりが特に深い仏とされ、南円堂とその仏像は、興福寺のお堂の中でもとても重視されていたんだ ***。

 

 

百花さん 中尊寺金色堂内には、二天王像がまつられていたよね。四天王と二天王、似てるけど、関係ある?

ゆいまくん 中尊寺金色堂の二天王像は、四天王のうちの2体なんだ。金色堂は壇が狭いために二天王となったのかもしれないね。でも、古代や中世の寺院の多くは、仏壇の4隅に四天王像を安置しているんだ。
 興福寺の場合、中金堂は釈迦如来像、東金堂は薬師如来像、北円堂は弥勒如来像、南円堂は不空羂索観音像が本尊なんだけど、そのいずれのお堂でも、壇の四隅には四天王像が安置されているんだよ。

百花さん 隅にいるってことは、仏像界の脇役ってことね。ドラマでも、主役は変わっても脇役はこの人じゃないと締まらないっていうこともあるもんね。四天王は名脇役なのね。

ゆいまくん そもそも天(天部)は、インドの神々が仏教に取り入れられたものなんだよ。
 深い悟りにある仏や、悟りの一歩手前にあって衆生を救済する菩薩とは違って、天はむしろ人間に近い存在なんだ。我々に近いということは、天には男性も女性もいるということだよ。女性の天は美しい女神の姿、男性の天は仏の世界を守るいさましい武神の姿であることが多い。四天王も鎧を着け、武器を取り、怒りの表情でもってあらわされるんだ。
 四天王は、世界の中心にそびえているという巨大な須弥山(しゅみせん)の中腹の東西南北に住しているとされる。仏さまを安置する壇を須弥壇(しゅみだん)というのは須弥山に由来し、従って四天王は須弥壇の四隅に安置されると、こういうわけだ。

百花さん それぞれの名前は何というの?

ゆいまくん 四天王の個々の名前は、持国(じこく)天、増長(ぞうちょう)天、広目(こうもく)天、多聞(たもん)といい、持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、多聞天は北方の守護を担当することになっているんだよ ****。

百花さん えーと、持国天、増長…天? それから、何だっけ? 何か覚える方法はないの?

ゆいまくん あ…あるよ。あるけど…

百花さん あるけど…ってどういうこと。もったいつけてないで、早く教えてよ。

ゆいまくん (小声で)じぞうこうた…

百花さん 何? 聞こえないんだけど。

ゆいまくん だから、「じぞうこうた」だよ。持国天だから「持(じ)」、増長天は「増(ぞう)」、広目天は「広(こう)」、多聞天は「多(た)」。

百花さん ああー、それが覚え方なんだ。でも「じぞう、こうた」ってどうよ。関西弁? 地蔵を買ったってこと? 「なに買(こ)うた~」「地蔵、買うた~」、なんちゃって。あれ、ゆいまくん、何、顔を赤くしてるの?

ゆいまくん だから言うの、嫌だったんだ! こういう語呂合わせみたいな言葉を言うのは、何だかすごく恥ずかしいし、おまけに、百花さんが変なこというから、みんなこっちを見ているみたいだよ!

百花さん えー、誰も見てないよ。ゆいまくん、自意識過剰~。


(注)
* この時の火災は治承4年12月28日におこった。治承4年は1180年だが、旧暦と新暦では月がずれるので、今の暦に直せば1181年1月のこととなる。

** 南円堂は創建当時より不空羂索観音像を本尊としてまつっている。ただし、当初像がつくられた時期については説がわかれている。その1つは、お堂創建の少し前(つまり平安時代初期)につくられたとするもの、もう1つは、奈良時代に講堂本尊としてつくられたが、講堂がのちに阿弥陀如来像をまつることになったために、新たにつくられた南円堂に迎えられたとするもの。後者の方が有力説である。
 不空羂索観音像は、鹿皮をまとってあらわされる。藤原氏の氏神は神鹿に乗って大和の地に降り立ったとされ、鹿の皮を着ける不空羂索観音像は、藤原氏にとって特別な仏となったのであろう。現南円堂本尊の不空羂索観音像の場合、ややわかりにくいのだが、左肩に浅い段差があり、これが鹿皮衣(ろくひえ)をまとう表現と考えられる(左肩から背中へたすきがけに続いている。光背があるため、見ることはできないが)。

*** 南円堂とその本尊不空羂索観音像が興福寺においていかに重要視されていたかを示すエピソードは多いが、ここでは3つだけあげておく。①九条兼実は、南円堂本尊再興を自らが成しとげたことについて、「藤家(藤原家)の中興、法相(興福寺は法相宗の大本山)の紹隆(さらに盛んにすること)はこの時」と日記『玉葉』(建久3年1月10日)に誇らしげに記している。②鎌倉時代の学僧、良算は、興福寺の礼拝すべきお堂について、金堂に続いて南円堂をあげている。③江戸時代の大火後、中金堂にさきがけて南円堂が再建されている。

**** 仏堂は南向きにつくられることが多く、その場合、45度南にずらし、本来東に置かれる持国天は東南隅に、増長天は西南隅に、広目天は西北隅に、多聞天は北東隅に置かれる。従って壇に向かい、手前側の左右に増長天と持国天、奥の方の左右に広目天と多聞天の安置となるのが一般的である。
 興福寺南円堂は東向きに建てられている。平安末期ごろにつくられた仏教図像集である「図像抄」によれば、堂が東向きの時には北側に45度ずらし、持国天が東北隅、増長天が東南隅、広目天が西南隅、多聞天が西北隅に置かれるとあり、南円堂の四天王像はこの形で置かれている(下図参照)。なお、中尊寺金色堂も東向きであり、東北側の像名を持国天、東南側を増長天と伝える。