4-7 仏師康慶の人物像

 

百花さん 康慶は誰の弟子なの?

ゆいまくん 「康朝(こうちょう)小仏師」と史料に書かれているので、若い時には康朝という仏師に従っていたことがわかっているんだ。
 ところで、百花さん、この時代の仏師は平安時代中期に活躍した定朝からはじまる3つの流派が競い合うようにして活躍をしていたんだけど、覚えているかな。

百花さん 定朝は覚えているよ。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった仏師だよね。その流れを汲む仏師は3つの派に分かれていったんだよね。うん、知ってる。知っているけど…何だっけ。

ゆいまくん 院派、円派、奈良仏師、これが定朝の流れを汲む仏師の3つの派なんだ。1181年の南都焼打ちの頃は院派が優勢で、円派がこれに続き、奈良仏師は劣勢だった。康朝、その子の成朝(せいちょう、じょうちょう)、弟子筋の康慶は、奈良仏師なんだよ。

百花さん 康慶は弱小派閥にいたのね。

ゆいまくん のちに、康慶は子、弟子を率いて自らの派を立ち上げるんだ。運慶、快慶など慶の字がつく仏師が多かったので、今では慶派と呼ばれているんだよ。

 

 

ゆいまくん ところで、康慶の師の康朝のことだけど、活躍期も短く、作品も伝わっていない。記録によれば、貴族の注文によって大日如来像をつくった時に、「はなはだ疎荒」と不評をかったそうなんだ *。

百花さん 「疎荒」って?

ゆいまくん 「疎」はおろそか、「荒」はあれている、すさんでいるという意味だよ。

百花さん それって仏像の評価としては最低ってことだよね。あ、もしかして、時代を先取りし過ぎたような作風で、保守的な貴族には受け入れなかったのかも。

ゆいまくん その可能性もあるかもしれないけど、ともかく、康朝はさほどの事績は残すことができずに歴史から消えていく。その康朝の子が成朝だ。
 さて、南都焼打ち後、興福寺の復興にあたって各堂の造仏担当が決められていったわけだけど、この時中金堂本尊の担当になったのは円派の明円(みょうえん)、講堂本尊担当が院派の院尊(いんそん)、そして南円堂が康慶と決まった。奈良仏師の正系をつぐ成朝は、はじめ分担に入っていなくて、本人の訴えによって食堂(じきどう)本尊の担当になったんだ。しかし成朝は、このせっかく得た造像を完成させることができなかったらしい。そもそも、確実に成朝作と知られる像は、今日、まったく伝来していないんだ **。

百花さん 奈良仏師は、康朝、成朝と、ちょっと残念な仏師が続いちゃったんだね。それで康慶は見限って、自分の派を立てたのかな。

ゆいまくん おそらく康慶は成朝よりも年長で、本来は成朝を助けるべき立場だったのだろうけどね。康慶はまわりからの信望が厚く、弟子にも恵まれ、優れた作品を生み出し、それが現在まで伝えられて、高く評価されている。それに対して成朝は不運な人だったのかもしれないね。

百花さん 身につまされる話ね。

ゆいまくん 康慶がまわりから信頼されていたという話だけど、南円堂の仏像をつくった2年後の1191年のこと、興福寺南大門仁王像の担当が院派の院実(いんじつ)と決まっていたのを、興福寺の僧から康慶に変えてほしいとの訴えが起こされているんだ(その結果について、担当は変わったのか変わらなかったのかは残念ながらわかっていない。また問題となった仁王像も現存していない)。このことから、興福寺の僧が康慶に寄せた信頼は並々ならぬものだったとわかる。
 その一方で、康慶の突飛な行動も記録されているんだ。
 1181年に興福寺の復興造仏を担当する4仏師が揃って儀式に臨んだ時、康慶だけが異なる服装で現れた。また、1188年の南円堂の造仏始めの際には、康慶の準備が遅れて、摂関家のリーダーで、南円堂再興の最高責任者でもあった九条兼実(かねざね)をいらだたせているんだ。

百花さん あらら。大胆? それとも無頓着? 

ゆいまくん この時、御衣木加持(みそぎかじ)が行われたんだ。仏像をつくりはじめる時の儀式で、これによって、単なる木材が仏像が生み出されるに値する霊性を備えた用材へと変じるというわけだね。
 南円堂造仏の御衣木加持の際、九条兼実が御衣木の向きや立て方に異を唱えたんだ。これに対して、康慶は反駁し、自分のやり方を通したんだ。

百花さん これって、準備が遅れて怒らせたあとのことでしょ。さすがにまずいんじゃないの。康慶さん、大丈夫だったのかな。

ゆいまくん 兼実は康慶の意見を追認したんだ。康慶の言うことに一理ありと認めたんだね。これは当の兼実の日記、『玉葉(ぎょくよう)』に書かれていることなんだよ ***。

百花さん 仏像をつくるということにかけては、自分の専門領域なんだという意識、自負心みたいなものがとても強い人だったのね。康慶さん、いいキャラしてる。
 康慶さんについて、もっと知りたくなってきた。ほかにもエピソードがあったら、教えてよ。

ゆいまくん 静岡県の瑞林寺(ずいりんじ)というお寺に伝わる地蔵菩薩像は、像内の銘文から康慶作とわかっているんだ。1177年の年紀があり、南都焼打ち前のことだね。
 銘文には、像に結縁(けちえん)した人びとの名前も書かれているんだ。結縁とは造像に関与することで仏との縁を結ぶことをいい、康慶を助けた小仏師やスポンサーとして造立を助けた人たちの名とともに、康慶にとって主筋である康朝の名前もある。年代的に、この像をつくるのに康朝が関係したとは考えられないけど、像内に名前を書くことで、かつての自分の主人が仏の世界とつながるようにと願ったのだろうね。
 それ以上に注目すべきは、銘文の中に、のちの鎌倉幕府と深いかかわりをもつことになる有力者の名前があることだ。幕府が成立すると、有力御家人の中には寺院を建て仏像をまつりたいと考えるものが現れてくる。それに応えたのが、康慶の子でのちにそのあとをつぐ運慶だ。運慶はいかにも東国武士好みの大胆で力強い作品によって彼らの期待に応えていくわけだけど、その先鞭をつけたのは、ほかならぬ康慶だったということになるね。
 その一方で、後白河法皇をはじめ、貴顕からの仏像の注文には、優美な作風を得意とする弟子、快慶を起用していく。康慶は一流の仏師に育て上げた運慶、快慶らを自在に用いながら、自らは南都の仏像再興の中心であり続けたんだ。

百花さん おーっ、康慶さん、すごいね。先見の明あり、すぐれた弟子を養成し、昔の恩も忘れない。それでもって、仏像をつくる技量も高くって、独立心が強く、偉いさんにもへいこらしないんだ。超ミラクル!

ゆいまくん 南円堂の造仏ののち、康慶一門は東大寺の復興でも大いに活躍するんだけど、最後にその時期の康慶に関連する話を紹介するね。
 この時代、僧綱位、つまり僧に与える高い位を仏師にも称号のようにして授与することが行われていたんだけど、康慶は法橋(ほっきょう)から法眼(ほうげん)へと進んでいた。法眼の上は法印(ほういん)で、これが極位、つまり最高位なんだよ。康慶はこの最高位を得るチャンスがあったのに、それを運慶に譲ってしまうんだ(1195年の東大寺供養の際のこと。この時、運慶は法眼になる)。

百花さん 康慶は、自分の位を上げるよりも、子どもの方を優先にしたのね。

ゆいまくん おそらく、派の将来を考えて、次の世代が早い段階で高い位に昇っている方が有利との計算がはたらいたんじゃないかな。
 1196年、東大寺大仏殿の大仏の脇侍の造立を康慶一門は担当した。脇侍は2体だから、それぞれリーダーを立てれば、大仏師は2人だよね。ところがこの時、大仏師を4人としたんだ。当時の史料には、半身ずつつくって合わせたなんて書いてあるけど、要するに康慶は管理職を増員することで、朝廷からのほうびを得やすいようにはからったんだと思うよ。

百花さん 康慶さんは、率いた仏師たちがこれから先も充実した仕事を続けていけるように、いつも考えていたのね。突飛な行動に出たこともあるということだけど、実は冷静に判断し、動くタイプだったのかも。興福寺の僧から信頼されたのも、もちろん南円堂の仏像がすばらしいできばえだったからなんだろうけど、慕われる人柄だったからというのもありそうね。

瑞林寺地蔵菩薩像
瑞林寺地蔵菩薩像


(注)
* 康朝は生没年不詳。事績としてわかっているのは、次の3つである。1154年、鳥羽金剛心院の造仏を父の康助とともに行い、康助の譲りで法橋となる。1158年、藤原忠雅発願の大日如来像をつくる。この時、忠雅から「疎荒」と評価される。1164年、蓮華王院供養に際して法眼となる。

** 成朝もまた、生没年不詳。1181年の興福寺復興造像の担当決めの際には、無位(僧綱位をまだ受けていない)であった。同じ奈良仏師で傍系の康慶が法橋であったことから、成朝は康慶よりもかなり若年と考えられる。
 鎌倉復興期造像の興福寺食堂本尊(千手観音立像)は、現在興福寺国宝館に安置されているが、像内納入品には1218年から1229年の年紀があり、年代の隔たりから成朝作とは考えにくい。このことから、成朝は食堂本尊担当となりながら、これを完成させることができなかったと考えられている。成朝は源頼朝の招きで鎌倉で仏像制作を行っているが、この像も現存せず、その実力のほどを知る材料がない。1194年に法橋。これが成朝に関する最後の記録である。なお、山梨県の放光寺の仁王像は成朝の作との説がある。

*** 御衣木加持に関し、兼実は康慶に3回異論を唱えている。①御衣木を置く向き(方角)②六祖の御衣木の扱い(人の像である六祖像の御衣木は仏像とは一緒にしてはならないということか)。③鑿(のみ)入れが終わった御衣木を堂内に立てるべきである。康慶は、②は従ったものの、①③は反論し、結局兼実は康慶のやり方を追認した。なお、康慶が兼実を待たせたという件については、導師の東寺長者も遅い時間に到着しており、時刻についての意思疎通が不十分であった可能性もある。

**** 瑞林寺の結縁銘中、のちの鎌倉幕府の成立にもかかわる重要な人物と考えられているのは次の2人である。「行実」は、源氏との関係が深く、のちに箱根神社の別当となり、頼朝の信頼厚かった人物の可能性がある。「義勝」は頼朝に挙兵直後から従っていた義勝房盛尋にあたる可能性がある。