4-1 囲いのない寺、興福寺

 

百花さん 今日は、奈良の興福寺ね。2018年に国宝指定された四天王像の拝観ということだけど、興福寺は修学旅行の時に来たことがあるよ。阿修羅像や仏頭は覚えてるけど、四天王はどうだったかな。

ゆいまくん 百花さんは、修学旅行で国宝館という興福寺の宝物展示館に入ったんだね。でも、今日はそこではなくて、南円堂というお堂に行くんだよ。
 興福寺にはたくさんのお堂があるけど、中でも南円堂は多くの方々の信仰を集めているんだ。西国三十三所の札所(ふだしょ、巡礼者が写経や願いを書いた札を納める所)になっていて *、日々お詣りする人で賑わっているけど、堂内はいつもは開かれていない。1年に1度、10月17日だけ入堂してお詣りができるんだよ **。

百花さん お堂の中を拝観できるのは、1年のうち1日限定なのね。「1日だけ、今だけ」みたく言われると、なんかそそられちゃうのよね。あ、それで今日、10月17日に行くことにしたのね。
 南円堂の四天王像は、いつの時代につくられた仏像なの?

ゆいまくん 南円堂は江戸時代の再建だけど、仏像は鎌倉時代初期につくられたんだ。本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音像を中心に高僧の像が6体(法相六祖像)、四天王像が4体だから、計11体。そのすべてが康慶とその一門によってつくられたもので、康慶は有名な仏師、運慶の父なんだよ。

百花さん 運慶って聞いたことある! チョー有名な仏師じゃなかったっけ。父親も仏師だったのね。
 興福寺へは、近鉄奈良駅から歩いて行くのね。あ、お堂が見えてきた。塀で囲まれていたり、門をくぐったりしないのに、いつの間にか、ここはもう境内? 不思議~。修学旅行の時は、バスから降りてすぐに国宝館に入ったからかな、その時は全然気がつかなかったけど、興福寺ってずいぶん開けっぴろげなお寺なのね。

鹿がくつろぐ奈良の風景
鹿がくつろぐ奈良の風景


ゆいまくん 19世紀の終わりごろ、奈良を訪れた正岡子規は、「秋風や 囲ひ(かこい)もなしに興福寺」という句を詠んでいるんだ。
 ここ奈良公園は観光客も多く、鹿がのんびり歩いていたりして、時間までゆったりと流れているようだね。でも、公園と思っていたらいつの間にか五重塔のもとを歩いていたりして、興福寺の境内でもあると気づく。ちょっと不思議だよね。
 実は、塀がないのには理由があるんだ。
 江戸時代が終わり、近代という時代に入ってすぐの頃、それまでさまざまな形で神仏がともにまつられていたのを改めて、今後は分けてまつりなさいという命令が政府から出されたんだ。これはあくまで「神仏の分離」だったのだけど、地域によっては、神道を大切にして仏教は抑える、政府の真意はそういうことだと解釈して、お寺を弾圧するということがおこった。江戸時代には寺院は幕府によって保護され、民衆支配の一翼を担ってきたので、その反発が一気に吹き出したということもあるのかもしれないね。これまで力のあったものが没落したときに生み出される利権にむらがり、おこぼれにあずかろうといったさもしい者も寺院の破壊に一役買ったらしい。
 全国的にみても、ここ奈良では廃仏の動きが顕著で、興福寺は一時廃寺同様の扱いとされてしまったんだ。塀も県によって取り払われ、境内には樹木が植えられて、公園にされてしまったんだよ ***。

百花さん えっ、そんなことが… 私たちの祖先にとって、お寺や仏像って長い間、心のよりどころだったのよね。それなのに、お偉いさんが言うことを忖度(そんたく)したりして、てのひらを返すように手ひどく扱っちゃったんだ。悲しいし、心が冷え冷えとするような話ね。

ゆいまくん 今でこそ、興福寺は緑が多く、開放的な感じで、それはそれで心がなごむけど、塀が取り払われた時期は、興福寺にとって大ピンチだったんだよ。そのことを知った上で子規の句を改めて味わってみると、印象が変わってくる。「秋風や」とあるのは、単に秋の情景だからというだけでなく、もの悲しい気持ちがこめられているんだ。
 でもね、興福寺にとって大変だったのは、近代の仏教排斥ばかりではない。平安時代以後繰り返された火災の被害にもたいそう苦しめられてきたんだ。小規模な火災まで含めると、100回以上にもなるらしいよ。

百花さん そんなに!? …そもそも興福寺はいつからこの場所にあるの?

ゆいまくん 興福寺は、藤原氏の祖、藤原(中臣)鎌足の病気平癒を願い、その妻が創建したのがはじまりとされているんだ。その時はまだ興福寺という名前ではなく、つくられた場所もここではなかったんだけどね。710年に都が平城京に移されると、藤原氏は自らの寺をこの場所に移し、興福寺としたんだよ ****。
 
百花さん 今日行く南円堂のほかにも、いろいろなお堂があるみたいね。

ゆいまくん 平安時代前期までに塔、3つの金堂(中金堂、東金堂、西金堂)、講堂、食堂(じきどう)、2つの円堂(北円堂、南円堂)、僧坊、南大門、中門などが次々と造営されて、壮大な伽藍が形成されていったんだよ。興福寺は藤原氏のお寺だけど、同時に国家の寺としての性格も持つようになっていったんだ。
 しかし、繰り返し襲った火災のために、奈良時代、平安時代の建物は1棟も伝わっていないんだ。最も古いのが北円堂と三重塔で、鎌倉時代。東金堂と五重塔は室町時代。南円堂は江戸時代。中金堂は最近(2018年)になって再建されたものだし、西金堂や南大門のように、再建されないままになっている建物もあるんだ。
 一方で、他のお寺から移されてきたお堂もあってね、中金堂の裏手(北側)にある仮講堂は室町時代の建築なんだけど、西ノ京の薬師寺の旧金堂を戦後に移築したものなんだよ。
 とても残念なのが食堂(僧が食事をとるためのお堂)で、鎌倉時代に再建されて以後は火にかかることがなかったのに、近代の廃仏の時期に取り壊されてしまったんだ。阿修羅像や仏頭が展示されている国宝館は、食堂の跡地につくられたものなんだよ。

百花さん たびたびの火災に近代の廃仏…たくさんの困難を越えて、興福寺は奈良時代以来ずっとこの場所で現在まで続いてきたのね。

 


(注)
* 興福寺西円堂は、和歌山県の青岸渡寺から岐阜県の華厳寺までの西国三十三所観音巡礼の第9番札所となっている。お堂に向かって右側に納経所がある。

** 毎年10月17日は大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ)という法要が営まれる特別な日で、これに合わせて一般公開が行われている。法要は午後1時より1時間程度だが、公開は9時から午後5時まで。

*** 1868年に出された神仏分離令をきっかけに、その後数年間全国で吹き荒れた仏教弾圧の動きを「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という。興福寺は大きな打撃を受けた。

**** 興福寺の前身は、藤原(中臣)鎌足の妻が夫の病気平癒を願って創建した山階(やましな)寺。大和に移転して厩坂(うまやさか)寺となり、平城遷都(710年)に際して現在地に移って興福寺となった。