コラム20

浄瑠璃寺旧蔵十二神将像について・下

静嘉堂文庫美術館のホワイエ
静嘉堂文庫美術館のホワイエ

1 佐野常民

 ここまで近代前期に起きた浄瑠璃寺からの十二神将像の第一次流出について見てきたが、ここからは第二次流出について述べていきたいと思う。

 第二次流出(1884年)の中心人物は、肥前藩(佐賀藩)出身の佐野常民(つねたみ)である。
 佐野は江戸幕府滅亡の直前、幕府が参加を決めたパリ万博(1867年開催)に派遣され、その経験を買われてウィーン万博(1873年)では明治政府によって博覧会事務副総裁として現地に赴いた。また、国内での内国勧業博覧会開催にも尽力し、「博覧会の父」とも呼ばれる。

 それ以上に佐野の名を不朽のものとしているのが、日本赤十字社の設立である。
 佐野はパリ万博において、国際的な救護組織である国際赤十字社の展示館を訪れてその活動に大いに共鳴するところがあった。なお、この時国際赤十字社はつくられてまだ4年目であった。
 佐野は西南戦争(1877年)が勃発するや、敵味方なく負傷した兵を助けるための組織を立ち上げることを主張した。西郷軍は天皇に弓を引く「朝敵」であり、その兵は救うに値しないといった意見もある中、佐野は「傷ついて武器を手放した者はもはや兵ではなく負傷者であり、それは敵も味方もない」と一貫して主張したという。

 こうした優れた活動で知られる佐野であるが、その一方で浄瑠璃寺からの仏像流出に関わったとされている。
 明治期の新聞(『毎日新聞』1902年11月22日、なお現在発行されている『毎日新聞』とはまったく別)に浄瑠璃寺の十二神将像の流出を扱った記事があり、そこでは佐野が仏像を持ち出したのはあくまで文化財を守るためだったと書かれている。
 しかし、実際にはそのような綺麗事ではなかったようである。


2 第二次流出

 佐野が浄瑠璃寺の十二神将像について、一部の像(5体)がすでに奈良博覧会社の植村によって持ち出されているといった情報を事前に得ていたかどうかはわからない。
 しかし、佐野により奈良へと派遣され、浄瑠璃寺から残る7体を持ち出すことになる加納鉄哉(てっさい)と竹内久一は本業は彫刻家であり、奈良博覧会において模造制作に携わっているので、植村と近しい関係であった可能性は高く、植村が引き起こした第一次流出についても知っていたのではないかと思われる。

 それにしても佐野はなぜ、アーティスト2人を奈良に派遣したのか。
 実は加納と竹内は十二神将像7体のほかに、浄瑠璃寺に伝わる吉祥天立像の厨子の扉絵を持ち出している。この時、2人は複製をつくっておいて、傷んだ古いものを新しいものに交換しましょうと持ちかけたらしい。さらに彼らは、吉祥天立像そのものもレプリカをつくって取り替えてしまおうと図ったが、これは失敗に終わった。なお、この時流出させた吉祥天像厨子の扉絵は現在東京芸術大学大学美術館の所蔵となっている。
 時期こそ不明であるが、唐招提寺においても地元の古美術商が仏像の厨子の複製品を作り、取り替えてしまおうと企んだが失敗したという話が伝わっている。言葉巧みに複製品と取り替えてしまうやり方は、近代になりそれまで与えられていた経済基盤を失って苦しんでいる寺院から寺宝を持ち出す際の常套手段のようになっていたのかもしれない。
 とするならば、佐野はそのやり方を知っていたからこそ、複製品をつくる技術を持つ彫刻家2人を派遣したのではないだろうか。
 もっとも十二神将像の場合は、複製品を新たに作るのではなく、比較的新しい12体揃ったセットをどこからか調達して来て、今残されている7体と交換してあげましょうと持ちかけたらしい。この時浄瑠璃寺は住職不在で、寺を守る係の者がいたのだが、これも仲間に引き込んで事を進めたという。

 「敵味方なく負傷者を救う」として日本赤十字社設立に邁進し、近代の偉人とまで高く評価される佐野常民であるが、詐欺まがいの手口によって浄瑠璃寺から十二神将像や吉祥天像厨子扉絵を流出させたことに関しては非難を免れることはできまい。


3 第二次流出の7体のその後

 このようにして佐野常民所蔵となった十二神将像は、子、丑、寅、卯、巳、申、亥の7体であった。
 このうちの5体(子、丑、寅、卯、亥の各像)は後に岩崎家に入り、静嘉堂文庫所蔵となっている。
 巳神将像は複数の実業家の所有を経て、文化庁から東京国立博物館所蔵になった。
 申神将は最も流転をした像で、実業家など5人もの手を経たのち、東京国立博物館所蔵に収まった。

 以上の12体に関して改めて次にまとめておく。
・子神将 第二次流出 佐野常民→岩崎家→静嘉堂文庫
・丑神将 第二次流出 佐野常民→岩崎家→静嘉堂文庫
・寅神将 第二次流出 佐野常民→岩崎家→静嘉堂文庫
・卯神将 第二次流出 佐野常民→岩崎家→静嘉堂文庫
・辰神将 第一次流出 植村久道→博物館→東京国立博物館
・巳神将 第二次流出 佐野常民→実業家らを経て→文化庁→東京国立博物館
・午神将 第一次流出 植村久道(奈良博覧会社)→実業家を経て→岩崎家→静嘉堂文庫
・未神将 第一次流出 植村久道→博物館→東京国立博物館
・申神将 第二次流出 佐野常民→実業家らを経て→東京国立博物館
・酉神将 第一次流出 植村久道(奈良博覧会社)→?→岩崎家→静嘉堂文庫
・戌神将 第一次流出 植村久道(奈良博覧会社)→実業家らを経て→文化庁→東京国立博物館
・亥神将 第二次流出 佐野常民→岩崎家→静嘉堂文庫


4 作者は運慶ではない

 近世の資料では、この十二神将像は運慶作とされる。さらに前出の明治期の新聞記事に、像内に運慶作との銘があると述べられている。ただし、12体のどの像とは書かれない。
 これら12体の像はかつてはいくつもの所蔵先に分かれていたわけだが、1体も失われることなく今日へと伝わったのは、本当に貴重なことと言える。もちろん僥倖もあったことだろうが、運慶作の優品として愛好家に広く知られ、その所在が常に意識されていたということも大いに関係していると思われる。

 しかし、その後運慶をはじめとする鎌倉時代の仏像や仏師についての研究の進展の中で、1920年代からは本像は運慶作として紹介されることが少なくなる。そして、2010年代に至って像の保存修理の際にファイバースコープを用いたところ、亥神将像(静嘉堂文庫蔵)の像内より運慶没後の安貞2年(1228年)の銘記が発見されるに及んで、この十二神将像が運慶作である可能性は否定されるに至った。


5 浄瑠璃寺旧蔵十二神将像の重要性

 運慶作ということは否定されてしまったが、それでも浄瑠璃寺旧蔵十二神将像が鎌倉時代の彫刻史において非常に重要な位置を占める像である。

 平安時代の十二神将像で、銘文から年代が判明するものはない。鎌倉時代に入り、最も古いものが、興福寺東金堂の十二神将像で、中の1体に1207年を示す年が書かれている。それに次ぐのが山梨県の大善寺の十二神将像(11体が伝存し、1体は補作)で、4体の像内に1227年、1228年の年が書かれている。この2例に続くのが、亥神将像より1228年の年が見つかった浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像ということになる。
 これら3組の十二神将像は、およそ20年の間につくられ、互いに近い位置にいた仏師の作である可能性も高い。比較検討することで見えてくるものは大いにあると思われる。
 特にこの3組はそれ以前に描かれた仏教の図像集に強い影響を受けていることが明らかにされている。図像を立体化するにあたって何をどう取捨選択したのかを読み取ることで、その時代の傾向のようなものが見えてくるかもしれない。

 ところで、運慶、快慶についてはその次世代も含め近年の研究の深まりは顕著であるが、その周辺にはいまだ謎に包まれている仏師が存在する。興福寺東金堂の仏像を中心に造像活動を行った定慶(じょうけい、もう少しあとで活躍する「肥後定慶」とは別人)という仏師もその1人である。運慶が京都や鎌倉関係の造像へと軸足を移していく中で、定慶の影響を受け継ぎ、奈良にとどまって活動した仏師の存在とその活動について、この浄瑠璃寺旧蔵十二神将像の存在が重要な1つの道しるべとなるかもしれない。


(参考)
『たたかう仏像』(展覧会図録)、静嘉堂文庫文庫美術館、2026年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』16、水野敬三郎(編纂者代表)、中央公論美術出版、2020年
『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか編、朝日新聞社ほか、2017年
「研究ノート 東京国立博物館・静嘉堂文庫美術館分蔵十二神将像の伝来と作者」(『MUSEUM』640)、神野祐太、2012年10月
『日赤の創始者 佐野常民』、吉川龍子、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー118)、2001年
『唐招提寺』、徳田明本、学生社、1973年

 

 

 
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申神将像(第二次流出、東京国立博物館蔵)
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亥神将像(第二次流出、静嘉堂文庫)
亥神将像(第二次流出、静嘉堂文庫)