コラム16

三十三間堂の鎌倉期再興を担った3派仏師・下

1 院派仏師の優勢(続き)

 ここまで縷々述べてきたように、三十三間堂が鎌倉時代の火災後に再建された際には、湛慶ら慶派のほか院派、円派仏師も造像にあたった。中でも、①造像を担った仏師の人数、②その仏師たちの位、③制作した仏像の数、④特に院承、院恵については高位の人物にかかわる像を担当していることを総合すると、院派のはたらきは非常に大きかったことがわかる。


2 慶派、大仏師湛慶・康円

 では、慶派の活躍が院派に比べて劣っていたのかというと、そう単純に決めつけることはできない。なぜなら、三十三間堂の再興造仏に当たったすべての仏師の中で慶派の湛慶と康円だけが「大仏師」を名乗っているからである(大仏師は小仏師などを配下に造仏を行うリーダー)。
 三十三間堂中尊の千手観音坐像の作者は湛慶であるが、この像にも銘文がある。詳細は省くが、その中で湛慶の肩書きとして「修理大仏師」と書かれる。この「修理」の意味はなかなか難しいが(コラム13 参照)、湛慶は中尊制作の大仏師であるだけでなく、三十三間堂の再興造仏全体のリーダーであったことが示唆されているとだけ述べておこう。
 この銘文によれば、中尊像は創建時三十三間堂が火災で失われた翌々年(1251年)につくられはじめ、ほぼ2年半をかけて完成、この時湛慶の年齢は82歳であった。運慶の長子で、長く最高位の法印位にあり、80歳を越えてなお造仏の最前線に立ち続けた湛慶は、おそらく派を越えて尊敬を集めていたに違いない。
 湛慶はまた、千手観音立像のうち9体を手がけている。その9体には足のほぞに短く「法印湛慶」と銘が書かれている。

 しかし、湛慶は三十三間堂の完成をみることなく、奈良・東大寺講堂の中尊再興の大仏師に転出し(あるいは兼任?)、その制作途上で没する。
 湛慶のあとを受け、三十三間堂の完成時に大仏師をつとめていたのが康円である。名前に「慶」の字はつかないが、湛慶の次の世代を代表する慶派仏師であり、湛慶が三十三間堂中尊をつくった際には小仏師としてこれを助作、また湛慶の死後東大寺講堂中尊を完成に導いたのも康円である。湛慶よりも38歳年下で、位は法印に次ぐ法眼であった。どうやら、最後まで法印には上らなかったらしい。
 康円作の銘記のある三十三間堂の千手観音立像は6体ある。銘文は足のほぞ及び台座内のパーツに書かれ、「大仏師法眼康円 文永二年丙寅歳 四月廿七(二十七)日(花押)」と書かれる(注)。湛慶作の像の銘(「法印湛慶」)と比べてずいぶん文字数が多く、足のほぞには小さな字でぎっしりと詰め込まれるようにして書かれている。
 ところがこの銘文、誤記がある。「文永二年」とあるのは「文永三年」の誤りなのである。どうしてそれがわかるのかというと、その下に書かれた干支(えと)の丙寅歳(年)は文永3年(1266年)にあたり、この年のまさに4月27日には再興された三十三間堂を供養する儀式が行われている。つまり、仏像はそれよりも早く仕上げられ、納入されていたのだろうが、日付についてはわざわざこの供養の日としたものと思われる。この銘記からは、「大仏師」としてこのお堂を完成に導いたのが自分であるという強烈な自負が感じられる。あるいは、湛慶が果たせなかったものを締めくくることができた、責任を果たせたといった安堵の気持ちも込められているのかもしれない。なのに、何ということであろうか。大切な年の記述を間違えてしまっているとは。強い責任感や自負を持つ一方で、ちょっと抜けたところもある人物だったということか。湛慶の実質上の後継者として複数の重要な仕事を成し遂げたにもかかわらず、法印位には上らず終わったのも、そうした彼の性格が裏目に出たから? そんな想像をしていくと、この康円という仏師に対して不思議に親近感が湧いてくる気がする。

 ところで、菩薩像の多くは肩に天衣(てんね)と呼ばれる細長い布をかけるのが通例である。三十三間堂の千手観音立像も天衣を着け、それが左右の肩から下がり、下半身を横切って腕を回って下がっていくのだが、その体を横切る部分は別の材でつくって取り付けられている。ところが、中には本体から直接刻んであらわす像が40体ほどある。これらの像には銘記はないが、姿形が康円作の像に近いとされる。体を横切る天衣を別材でつくらずにすませたのは時間短縮のためか。そうであるならば、完成式典が近づいても像の数がなお不足しており、康円が大急ぎでつくらせたといった推測ができそうである。

 確かに慶派は参加仏師数、銘記によって明確にわかる造像数は少ない。しかし、湛慶がリードし、康円がアンカーとなって完成にこぎつけたのだと考えると、その活躍は大いに評価されるべきである。

(注)花押はサインのこと。康円の6体の銘記は、完全に同じではなく、花押が名前の後にくるものと日付のあとにくるものがある。また、改行の場所がちょっと違っていたり、康円のあとに「作」がついているものもあるが、そうした若干の違いを除きほとんど同文である。

 


3 「分」と「実検銘」

 ここまで、三十三間堂復興造像における院派と慶派の役割の重要性を確認することができた。
 次は円派について検討すべきところだが、その前に、ここで「分」と「実検(撿)銘」について述べておく。これらは三十三間堂の仏像の銘文のみに見られ、大変興味深い(注)。
 例えば、院派仏師の院豪(当時法眼、のちに法印に上る)作とわかる像は10体あるが、その他に「院豪分」と記された像が14体存在する。これらは、本来院豪に割り当てられたが、何らかの事情で別の仏師が制作にあたった像ということなのであろう。
 三十三間堂の再建にあたり、900体近い像を一定の規格に沿って揃えるためには、おそらくは核となる有力な仏師を選定してそれぞれにまとまった数を割り振り、それらを合わせて全体の完成を目指したのではないだろうか。院豪は院派の重要な仏師の1人であり、多数の像が割り当てられ、院豪はその一部を系列下の仏師につくらせることにしたのであろう。銘に「分」とある像にはこのような経緯が考えられそうである。
 次に「実検銘」について。
 これは、仏師が制作した像を受け入れる際実務をとった役人と思われる名前が書かれたものである。「実検」「奉実検」「実検了」などの言葉とともに「長快」「左衛門尉大江」のような名前がある。さらに、年月日が書かれるものもあれば、仏師名とともに書かれているものもある。実検銘のある仏像は100体余りを数える。

 

 

4 円派、隆円および真のクローザー(?)昌円

 さて、いよいよ三十三間堂再興造仏に関わった円派仏師についてである。
 円派は隆円(りゅうえん)、昌円、栄円、勢円の4人の仏師が銘記に名前を残す。作品数は4人の合計で自作が43体、「分」が39体である。院派に比べて仏師数、造像数ともに少ないが、4人で自作と「分」を合わせて82体というのはなかなかの健闘ぶりと言えるだろう。
 特に注目すべきは隆円である。隆円は法印位にあり、自作の像は24体にのぼる。これは参加仏師中最大の数であり、加えて「分」が13体ある。三十三間堂の復興造像と同時に始められた法勝寺阿弥陀堂の再興造仏でも隆円は重要な役割を担っていることが知られ、今でこそ湛慶に比べて知名度は落ちるが、当時は同列くらいに重んじられていた仏師だったようである。
 また、昌円は隆円の配慮もあって法印に上っているので、隆円の後継者と目される。自作が6体、「分」が6体ある。
 昌円は、隆円が比叡山延暦寺から与えられた但馬国(兵庫県北部)の領地を1257年に引き継いでいる。ということは、隆円はこの時点で死去したか引退したと考えられる。隆円は湛慶同様三十三間堂復興造仏の前半期に活躍した仏師だったのである。そして慶派のリーダーが湛慶から康円に引き継がれたように、円派もまたこの間に昌円への世代交代が行われたとわかる。

 ところで、隆円の「分」で、不思議な日付が書かれた像が2体ある。この2像には実検銘があり、その日付が文永3年(1266年)5月18日と同年の7月5日となっているのである。この2つの日付は、三十三間堂落慶供養日である文永3年4月27日よりあとなのである。ということは、完成式典が行われたあとにこれら2体は検査を受けて納入されたということになり、もし本当にそうであるならば式典時には千手観音立像の数は1000体を割り込んでいたということになってしまう。それでも式典はできないこともないだろうが、やはりすべて揃ってこその落慶供養ではないだろうか。何らかの手違いがあってのことなのか。三十三間堂の再建には15年という歳月がかかっており、その間に仏師の世代交代があったように、受け入れ側にも人員の交代があって、引き継ぎが十分でなかった等の問題があったのか。あるいは、銘記に年を誤記した実績(?)のある大仏師康円が、ここでもやらかしたとか?
 そして、この緊急事態に即応したのが円派だったのでは。再興事業の初期に活躍した先代リーダーの隆円の「分」として、おそらく昌円が最後の数合わせに急ぎ協力したのではないだろうか。
 想像が過ぎているかもしれないが、隆円、昌円ら円派も院派、慶派に勝るとも劣らぬ活躍で三十三間堂復興造仏を支えたといえるではないだろうか。

(注)「実検銘」のある仏像で三十三間堂以外にまつられている仏像が1体だけ知られている。それは兵庫・朝光寺の2体の秘仏本尊のうちの1体で、三十三間堂の千手観音立像と同様の像高、形状で、足のほぞに「実撿了/長快(花押)」とある。この像はもともと三十三間堂にあり、何らかの事情で朝光寺に移されたと考えられる。三十三間堂には室町時代の像が1体あり(現在中尊の真うしろに立っている)、この像が加えられたことと関係がありそうだが、その経緯はまだ解明されてはいない。

 


(参考)
『鎌倉時代仏師列伝』、山本勉・武笠朗、吉川弘文館、2023年
『千体仏国宝指定記念 無畏』(三版)、妙法院門跡 三十三間堂、2022年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』第8巻(図版、解説)、水野敬三郎 ほか編纂、中央公論美術出版、2010年

 


 → 次のコラムを読む   仏像コラムトップへ