コラム17

普済寺の六面石幢、新たな保存施設へ


1 国宝・普済寺六面石幢

 東京都立川市の普濟寺(普済寺)に伝わる六面石幢(せきとう)をご存じでしょうか。
 石幢とは、本来は布でつくった荘厳具(仏の場を美しく飾るもの)だったものを石に置き換え、据え付けとしたものです。六角柱や八角柱の形をしています。中国を起源とし、日本での作例はそれほど多くはありませんが、供養塔として地蔵菩薩を浮き彫りにしたり、仏をあらわす梵字を刻んだりしているものを各地で見ることができます。
 その中でも普済寺の六面石幢は大型で時代も古く、作られた年までもがはっきりとわかる貴重な作例です。仁王、四天王を浮き彫りにしている点も珍しく、それがまた極めて美しいものであるために古くからよく知られ、江戸時代には『集古十種』(松平定信らが制作した古物図録)にも掲載されました。石で美しく彫られている物があればそこに必ずと言っていいほど登場してくるのが拓本ですが、この石幢についても多くの文人が拓本を求め、その結果として表面の摩滅が進むという喜ばしからざることにもなりました。

 長年の風雪に耐え、また拓本を繰り返し取られてきたにもかかわらず、現在でも普済寺の六面石幢の浮き彫りは神々しいまでの美しさを備えています。仁王、四天王の各像はそれぞれ勇ましくポーズをとります。四天王像はそれぞれ異なる持物を取り、足ごしらえなども各像で違いを出すなど工夫が凝らされています。さらに、各像の足下の岩座、上方に舞う七宝に至るまで、細かくあらわされています。
 文化財として国宝になっており、石造物の国宝指定は珍しいのですが、まさに指定にふさわしい逸品と言えましょう。
 なお、6面中、広目天像が浮き彫りされた面に1361年を示す銘が書かれ、南北朝時代の作とわかります。


2 六面石幢の構造と関東大震災での被災

 六面石幢は緑色片岩という石でつくられています。これは秩父地方で多く産出され、関東の中・近世の石造美術の多くがこの石材でつくられています。
 本体(幢身)は6面の板状の石を組み合わせており、それぞれ高さは約170センチ、幅が約40センチ、厚さが10センチくらいです。それを上から見て正6角形になるように組み合わせて立て、下は六角形に整えられた台石(台座)、上はやはり六角形にした平らな石を3段に重ね(笠石)、最上段には宝珠を載せます。総高では2メートルを越えます。
 6つの面はそれぞれ隣の面とスムーズにつながるようにサイドが斜めにつくられていますが、連結されてはおらず、各面とも上下にほぞ(接続させるために作られる突起状の部分)を作り出し、台石と最下面の傘石にあけられたほぞ穴に入れることで立てられています。下のほぞは長く、台石の穴からさらに土中に突き刺していたらしいです。こうしてそれぞれの面が上下で留められることで別個に立って6面体の石柱のように見せているのですが、実は中は空洞になっています(なっていました)。
 江戸時代後期の幕府役人で文人として有名な大田南畝(なんぽ)は、多摩川流域の水防の調査のためにこの地区を訪れた際に六面石幢を実見しています。強く興味を引かれたようで、その1ヶ月後にも再訪しているほどです。当然ながら拓本を求め、また著作の中で挿絵入りで紹介もしています。上に書いたような石幢の構造も把握したようで、「上下でしっかり留まっているから、地震でも大丈夫」と書いています。
 なお、江戸時代の普済寺境内図によれば、六面石幢は小さな建物によって守られていたらしいのですが、近代には露座となっていました。

 ところが、大田南畝の太鼓判にもかかわらず、1923年の関東大震災で六面石幢は被災し、倒壊してしまいました。浮き彫り面に損傷はなかったのは不幸中の幸いですが、6面中3面の下のほぞが完全に断裂し、また最下段の笠石も割れてしまうなどの被害がありました。
 その修理が1927年に行われました。この時、用いられたのがコンクリート。中央の空洞だった部分もコンクリートが柱状に注入され、6面の板をしっかりと止めて、2度と倒壊することがないようにしました。
 戦後の1954年には覆屋(おおいや)が設けられてさらなる保護を図り、その後1986年に小規模な修理が行われたそうです。


3 六面石幢、修復・移転へ

 筆者がこの六面石幢をはじめて拝見したのは2007年のことです。本堂の奥の墓地の先にひっそりと覆屋が建ち、ガラスの窓から覗き込むと視野は限られるものの肉眼で銘文も見ることができました。その後何度かうかがいましたが、たいていほかに人はなく、まるで時が止まったようにも感じられ、いつ来ても静かな中でその美しいお姿にお会いできるものと思っていました。

 転機が訪れたのは2018年のことです。六面石幢が立つ境内の区域が土砂災害警戒区域に指定され、これを受けて六面石幢を今後どうするべきか、どのような形で未来へと受け渡して行くべきか、議論が行われました。
 翌2019年、六面石幢が立つ基礎部分の地下構造調査が行われ、2020年からはいよいよ六面石幢の解体、移動、修復がはじまっていきました。並行して新たな保存施設の建設も進められ、また、3次元計測によって精巧なレプリカが作成されたりもしました。
 そして2024年、修復を終えた石幢は新しい保存施設に安置されたのです。

 2025年秋、立川市歴史民俗資料館で「甦る六面石幢 文化財修復最前線」と題する企画展が開かれました。普済寺石幢について細かく取り上げるとともに、新しくつくられたレプリカも展示され、合わせて修復の経緯に関しても紹介されました。それほど大規模な展示ではなかったものの、六面石幢に関するあれこれが痒いところに手が届くように述べられており、充実した良い展覧会でした。この小文もその展覧会で見聞したところに多く負っています。

 ところで、修復事業は当初の予定以上に長くかかったのですが、その主な原因は関東大震災後の修理で用いられたコンクリートにありました。コンクリートは当時最新の技術であり、6面のうち3面について下のほぞが失われてしまった石幢を安定した状態に保つため、その使用が最善策と考えられたのでしょう。ところがコンクリートでガッチリと固められてしまっていたことが、今回の修復に際して困難な状況を生み出してしまうことになったのです。
 上記の展覧会で解体作業の記録映像が流されていたのですが、狭い覆屋の中で文化財を傷つけることなくコンクリートをはがして解体していく作業がいかに大変なものであったのかが伝わってきました。


4 文化財修復の原則と六面石幢

 現在では文化財修復の原則として、「可逆性がある材料の使用」ということが言われます。「可逆性」とは、元に戻すことができることを言います(反対に、もう元には戻せないという一線を越えてしまうと「不可逆性」となります)。いかに最善と考えられる修復方法であっても、未来においてはさらに優れた技術が開発されて、新たな修復が行われないとも限りません。その時になって、かつての修復が足枷になるということはあってはならないということです。今はまだ考えが及ばない未来の何かに思いをはせ、そこから現在に立ち返って今何をすべきか、あるいは何をしてはならないかを考えるというのは、ある種とても美しい思考の道筋であると筆者は思います。
 今回の六面石幢の修復は、可逆性のある材料の使用の原則がいかに重要であるか改めて示された事例とも言えましょう。

 上記展覧会開催中の11月上旬、六面石幢の修復後はじめての「特別公開」が行われたそうです。残念ながら、筆者はこの機会を逃してしまいました。今後については、どのように公開していくのか、詳細は未定と聞きます。いずれにせよ、かつてのように気軽に境内でお会いできるということはもうなくなってしまったわけで、寂しくもあります。
 しかし、修復を終えた六面石幢は、新しい環境の中で必ずやまた新たな魅力を発信してくれることでしょう。再会できる日が楽しみです。

 

 

(参考)

『古代中世の考古・石造物・美術工芸(新編立川市史調査報告書古代・中世編 1)』、立川市、2023年

 

 


 → 次のコラムを読む   仏像コラムトップへ 

 

立川市歴史民俗資料館常設展示室に展示されている六面石幢レプリカ
立川市歴史民俗資料館常設展示室に展示されている六面石幢レプリカ