コラム15

三十三間堂の鎌倉期再興を担った3派仏師・上

夕闇迫る三十三間堂
夕闇迫る三十三間堂

 1 京都・三十三間堂の再興

 京都、三十三間堂は平安時代末期の創建だが、それから100年とたたない鎌倉時代中期の1249年に火災で焼け、その後に再建されて今日に至る。今回は鎌倉時代の再建期に活躍した「三派仏師」について考えていきたい。

 よく知られているように三十三間堂はとても長い建築物で、中央に大きな千手観音坐像が置かれ(中尊)、その左右に500体ずつ、さらに中尊の真裏にも1体安置されている。中尊以外の1001体はほぼ同じ像高で、人の背丈に近い「等身大」の立像である。
 中尊像の作者は湛慶。運慶の長男で鎌倉時代を代表する仏師である。創建時の中尊は残念なことに火災によって建物と運命を共にし、再建時に中尊をつくったのが湛慶である。
 一方、1001体の千手観音立像の一部は火災の中持ち出されたことがわかっている。救い出された仏像の数は124体。全体の1割強しか持ち出せなかったと言うべきか、よくもまあ火の手が迫る中100体以上も救うことができたものだと考えるべきか。ともかく、命の危険も顧みずに仏像を救出した人たちがいて、創建時の像が一部であっても今に伝えられたということは覚えておきたいものだ。
 こうした経緯で、現在三十三間堂に並ぶ千手観音立像1001体のうち124体が平安時代の像である。ということは、差し引きすると877体がその後につくられた像ということになる。その中にはどういうわけか1体室町時代の像があり、これも引くと、鎌倉再興期につくられた像は876体という数になる。
 この鎌倉時代の像はおよそ15年の歳月をかけ、救い出された仏像と並べて違和感がないよう創建時の像の作風を合わせて造像されたものなのである。


2 三派仏師について

 ところで、当時中央で活躍する仏師は、いくつかの派に分かれていた。例えば、三十三間堂再興時の中尊をつくった仏師である湛慶らは、「慶」という字がつくことから「慶派」と呼ばれる。
 慶派に対して、院派、円派というのもあり、それぞれ「院」の字、「円」の字がつく仏師が多いことからそのように呼ばれている。合わせて三派(三派仏師)といい、実はこれらすべては平安時代中期から後期にかけて活躍した定朝という仏師の流れを汲んでいる。
 定朝は、歴史教科書でもお馴染みの宇治の平等院鳳凰堂本尊阿弥陀如来像をつくった仏師で、「和様」といわれる繊細、優美な仏像の表現、さらには寄木造という技法の完成者としても知られる。また、法橋、法眼、法印といった僧綱位、これは本来非常に高い僧の位なのだが、それを仏師として初めて受けたのも定朝である。
 以後、定朝の流れを汲む三派の仏師が僧綱位を得て、朝廷や院、大寺社といった大きな権力を持つものからの仏像の注文を独占的に受けるという流れができていく。たとえば、鎌倉時代初期に活躍した運慶は最高位の法印に上り、三十三間堂の中尊の千手観音坐像をつくった湛慶も法印であった。

 三十三間堂の再興は、建物と数百体もの仏像をつくるという非常に大きなプロジェクトだったので、もちろん湛慶ら慶派仏師だけではなく、院派仏師、円派仏師も大いに造像に加わった。
 さて、ここで銘文の話に入る。
 銘文というのは器や像などに直接書かれ、あるいは刻み入れられた文字、文章のことで、仏像の場合、古くは飛鳥時代の仏像で、台座や光背(像の後ろに立て、仏の出す光明をあらわすもの)に銘文が刻まれたものがある。寄木造の仏像が多くつくられる時代に入ってくると、像内に墨書された銘文を持つものも出てくる。
 三十三間堂の仏像にも銘文のある像があり、その多くは「ほぞ」と呼ばれるパーツに書かれている。銘が書かれたほぞは台座に像を立てるために足の下につけられた突起で、それほど大きなスペースではないため、書かれる文字数は限られる。そっけなく作者名が2文字書かれているものもあれば、文字を小さくしてかなりいろいろなことを書き入れている銘文もある。その書き方はかなり多様で、比べるとなかなか面白い。
 ただし、すべての像に銘文が書かれているわけではない。鎌倉仏876体中、銘文がある像は330体くらい(その後に修理された際に書かれた銘を持つものもあるが、それは除く)、実作者名が明記されている像に限ると200体ほどを数えることができる。なお、平安時代の創建仏には銘文はない。
 つまり、全体数から考えると銘文のある像の方が少ない。しかし、銘文を持つ鎌倉仏が300以上も三十三間堂にはあるわけで、これを手がかりに当時の各派の仏師の活躍の状況について推測ができる。


3 院派仏師の優勢

 銘文から確認できる像の作者(実作者)を派ごとに数えてみよう。
 すると、慶派(快慶流含む)は4人(湛慶、康円、行快、春慶)、円派も4人(隆円、昌円、勢円、栄円)、これに対して院派は10人以上を数える(注)。次に造像された仏像の数を見てみると、慶派(+快慶流)の仏師作であることが銘記からわかる像は20体余り、これに対し円派は40体以上、院派は100体以上である。この数字から「院派の圧倒的優勢」と言えそうである。

 もちろん、最大多数は無銘の像であるので、本当に慶派の作が少なく、院派が多いと言い切れるかと問われれば、答えに窮せざるを得ない。実際、無銘の像の中に慶派の康円の作風に近い像、また快慶流の行快の作風に近い像が一定程度あるという指摘もある。しかし、銘記のある仏像で比べる限りにおいては、院派の優位は揺るぎないと言えよう。
 さらに、仏師の位についても見てみよう。仏師に与えられた最高位である法印の位を得ている仏師は慶派では湛慶のみだが、院派では、院継(いんけい)、院審(いんしん)、院承(いんじょう)、院恵(いんえ)、院賀(いんが)と、何人もの法印位の仏師がいることが銘文からわかる。

 さらに、上にあげた院派仏師の中から院承と院恵という2人に注目してみたい。
院承と院恵はともに20体以上に銘記を残しており、まさに三十三間堂の再興造仏を支えた代表的な仏師である。2人は同じ院派ではあるが、その系譜は数代前に分かれており、同じ院派でありながら競い合うような関係であったのかもしれない。
 その院承、院恵が制作した像の銘文に、高い位の貴族と思われる人物を指す言葉(「近衛殿」、「徳大寺殿」、「御室」)が書かれているものがある。
 仏像の銘文から読み取れる情報としては、願主(像を作らせた人)、願意(像を作った理由や願い)、造像の時期、仏師名などがあるが、それ以外の人物の名前が書かれている場合があり、そうしたものを結縁(けちえん)銘という。結縁とは、仏像と特定の人物が縁を結ぶことをいい、具体的には結縁者は造像を援助する役割を果たす。今でいうところのスポンサーである。数百体もの造像を行った三十三間堂再建では、こうした高位の人物による経済面の支援はなくてはならないものであったろう。そして、このような重要な結びつきのもとで造像にあたったことが銘文からはっきりしている仏師は院派のこの2人に限られているという事実は重い。現在では院承や院恵は、中尊を担当した湛慶に比べれば必ずしも著名とはいえないが、当時としては勝るとも劣らない重要な仏師であったのではあるまいか。

(注)行快は快慶の高弟。快慶は運慶の兄弟弟子なので慶派に属するが、近年は快慶及びその弟子筋を「快慶流」として別に扱うことが多い。春慶は師弟関係不明だが、名前に「慶」がつくこと、小仏師として行快を助けて造像を行ったことがあることから、慶派、快慶流に近い仏師と考えてよいと思われる。


 (続く)

 
 → 次のコラムを読む   仏像コラムトップへ