コラム19
浄瑠璃寺旧蔵十二神将像について・上

1 十二神将
十二神将は薬師如来の眷属(けんぞく、主尊に従うもの)である。12の神将がそれぞれ7000もの夜叉(鬼神)を率い、薬師如来を信仰する者を助ける。なんとも頼もしい守護神である。
インドで生まれた各神将は、サンスクリット語のクンビーラ、ヴァジュラなどの名前を持ち、その音に漢字が当てられて宮毘羅(くびら)大将、伐折羅(ばさら)大将などと呼ばれる。
日本における古い作例としては、奈良、新薬師寺の十二神将像(奈良時代)が有名である。
その後、12という数から十二支と結び付けられ、子の神将は子の時刻や方位を守るといった信仰が生まれ、像の頭頂部には十二支の標幟(ひょうし、目印となるもの、例えば子神将であればネズミの上半身の小像)を付けることが一般的となる。 ところが子神将の本来の名は何なのか、丑は何神将なのか、その対応関係がはっきりせず、その上、宮毘羅、伐折羅などの馴染みのない似かよった名前であるために文献上の混乱も多いため、十二支の標幟がついている十二神将像では、子神(子神将)、丑神(丑神将)といった呼ばれ方がされることが多い。
2 浄瑠璃寺旧蔵十二神将像
京都府の南山城という地域にある古刹、浄瑠璃寺にも十二神将像が伝来していた。
鎌倉時代前期の作で、各像は変化に富み、それでいて全体としてのバランスもよく、また金を用いた鎧の模様の美しさも特筆に値する。写実性に優れ、今にも刀を抜こうとする辰神将像、矢をつまよる(矢がらが真っ直ぐかを確認する)亥神将像など、数百年前の名将の一瞬の姿が小像の姿をなして降り来たったかのようである。
勇ましいばかりでなく、大きく口を開きこぶしを突き出して勝どきを上げているかのような酉神将像、人を喰ったようなユーモラスな顔つきの申神将像のように諧謔味がありそれが魅力となっている像もある。
何とも素晴らしい出来ばえの一具像である。
ところで、上に「伝来していた」と過去形で書いたのは、今はもう浄瑠璃寺にはないからである。明治期の前半に寺から出て、現在はそのうちの7体(子、丑、寅、卯、午、酉、亥の各神将像)が静嘉堂文庫、残り5体(辰、巳、未、申、戌の各神将像)が東京国立博物館にある。
残念ながら、どちらの館でも常設展示されていない。見るためには、それぞれの館のホームページを時折チェックしていただくのがよいが、それにしても一度に数体がまとまって展示されるということは少なく、ましてや12体揃うというのはよほど特別な企画展に限られる(1975年の「鎌倉時代の彫刻」、2017年の「運慶」=いずれも東京国立博物館の特別展において、12体が揃って展示された)。
もし今後そういった展覧会が開催されることがあれば、ぜひご覧になるとよい。
3 伝来
池をはさんで西に九体阿弥陀堂、東に三重塔が建つうるわしの古寺、浄瑠璃寺。阿弥陀堂の本尊は9体の阿弥陀如来像、三重塔は薬師如来像で、それは西方の浄土の阿弥陀、東方の浄土の薬師の位置を反映させたものと説明される。
しかし、実は三重塔に安置されている薬師如来像は、かつては本堂内の厨子中に安置されていた。
桃山時代(16世紀)の記録を紐解くと、本堂内に置かれた薬師如来の厨子のまわりに十二神将像が安置されていたとある。これが現在東京国立博物館と静嘉堂文庫に分蔵されている十二神将像の記録上の初見である。以後、江戸時代を通じてこれらは本堂に安置されていたとわかる。
しかし、それ以前のこととなると残念ながらわからない。薬師如来像は平安時代(11世紀)の作、十二神将像は鎌倉時代前期(13世紀)のものであるので、一緒につくられたものではなく、十二神将像はあとになって眷属として加えられたものであることは確かだが、それば鎌倉時代のことなのか(すなわち十二神将像は初めからこの薬師如来像の眷属としてつくられ、その後もずっと浄瑠璃寺に伝えられてきたものか)、それとも、かつては別の寺にあって、中世のいずれかの時点で浄瑠璃寺に来たのか、それは残念ながら不明である。
ただ、薬師如来像は等身大(ほぼ人の背丈に近いような像高の像)の坐像で、十二神将像はおよそ70から80センチくらいの像高であり、主尊と眷属としてバランスがよい大きさということは言えそうである。
4 第一次流出とその後
浄瑠璃寺の所在地は京都府だが、京都の市街までは遠く、奈良の方がずっと近い。歴史的にも奈良との関係が深く、かつては興福寺(一乗院)の末寺であった。
よく知られたことだが、近代初期の神仏分離と廃仏毀釈の嵐の中で興福寺はほとんど廃寺同然となったことがあり、そうなると当然浄瑠璃寺も厳しい状況に立たされた。そうした中で、浄瑠璃寺から十二神将像などの寺宝が流出するという事態が起こってしまったのである。
その流出だが、1度にすべてが寺から出たのではない。流出は2度おこり、その結果12体全部が寺外に出た。1度目(第一次流出)は1877年ごろ、2度目(第二次流出)はその7年ほどのちの1884年のことである。
なお、十二神将像の流出とその後の伝来については、神野祐太氏の「東京国立博物館・静嘉堂文庫美術館分蔵の十二神将像の伝来と作者」(『MUSEUM』640)と題する労作があり、この文章もそれに多くを負っている。興味を持たれた方は、ぜひ神野論文をお読みいただきたい。
さて、第一次流出を引き起こしたのは、植村久道という人物と考えられている。この時、12体中の5体が持ち出された(辰、午、未、酉、戌の各神将像)。
植村は当時、奈良博覧会社社長の地位にあった。奈良博覧会社は、1875年から東大寺大仏殿を会場として行われた奈良博覧会の運営にあたった組織である。この博覧会は奈良の町の活性化に加えて、日本に本格的な博物館を設立する機運を高めることを目的として始まったもので、各寺院の宝物などが展示され、寺社に伝わる文化財がいかに貴重なものであるか広く認識されるきっかけを作ったとされる。だが、その舞台裏で運営会社の社長が寺宝を密かに持ち出し、着服するといったことが行われていたのである。
では、持ち出された5体の神将像はその後どうなったのだろうか。
辰神像と未神像の2体は、1882年に博物館によって購入された。この博物館とは当時の名称で、その後身が現在の東京国立博物館である。従って、この2体はそのまま東京国立博物館の蔵品となっている。
午神像と酉神像は、奈良博覧会社から(別の実業家の手を経て?)岩崎家に入り、静嘉堂文庫所蔵となった。静嘉堂文庫は三菱の創業者岩崎家によって設立された古典籍の図書館であり古美術の美術館である。
戌神将については、奈良博覧会社、実業家や政治家と所有が変わり、その後文化庁所蔵となり、東京国立博物館の蔵品となった。
(続く)


せきどよしおの仏像探訪記
ゆいまくんと百花さんの 21世紀国宝仏の旅