コラム21

昔の高校日本史教科書を読むー彫刻史はどう記述されたか

 

1 昔の教科書、今の教科書

 昔の教科書を読み返す機会があった。
 実教出版の『高校日本史』。奥付に「1982年文部省検定済」とあり、今から40年以上前のものである。実はこれ、私が公立高校で日本史を受け持った時に使用した教科書である。日本史教科書は山川出版のシェアが大きく、自分が高校生の時も山川であったので、着任した学校でこの実教出版の教科書を渡され、戸惑いながらも新たな気持ちでページをめくったことが思い出される。

 半世紀近くも経つと、教科書もずいぶん変わる。科目名からして今は「日本史」ではなく、「日本史探究」となっている(皆さん、知ってましたか?)。本文も随分と変わり、新たな発見や研究の進展にともなって加えられたり、書き換えられた内容も多い。掲載されている歴史の事項は明らかに増えていて、今の生徒は(先生も)大変だなとも思う。

 しかし、こと仏像彫刻については、記述はあまり変わってはいない。だいたい彫刻史は、各時代の最後に登場してくる「文化」の中に美術分野の動向として建築や絵画、工芸などと共に記述されるものと相場が決まっており、大きなスペースが割かれるということはない。各時代ごと数行で、それは昔も今もそう変わらない。
 例えば、天平文化(奈良時代の文化)では、「彫刻では、金銅像のほかに塑像・乾漆像の技術が発達し、東大寺戒壇院の四天王像、同法華堂の不空羂索観音像、執金剛神像、日光・月光両菩薩像、興福寺の八部衆像などが有名である」。これが1982年『高校日本史』の本文の記述である(塑像、乾漆像について欄外に注が付せられる)。
 一方、今使われている教科書(実教出版『日本史探究』、2022年文科省検定済)では「仏像彫刻には、従来の木造・金銅像のほかに、塑像・乾漆像の技術が取り入れられ、リアリティを求めた写実的な作品がつくられた」となっている(代表作は本文でなく、表で紹介)。まあ、それほど変化がないと言っていい。

 平安時代初期の文化(弘仁・貞観文化)も見てみよう。
 1982年の『高校日本史』は、「仏像をつくる技法も1本の木材から一体の仏像を彫る一木造が発達し…」と本文ではわずかこれだけである。これに加えて表によって神護寺薬師如来像、観心寺如意輪観音像など、この時代の代表的な作例を紹介している。
 現在の『日本史探究』ではどうか。「…信仰を集めた如意輪観音・薬師如来・不動明王などの彫刻や絵画が、神秘的な雰囲気をただよわせる表現で製作された。彫刻では一木造の技法が流行し…」とし、表によって代表作が紹介される。こちらもまあ、そう変わらない(平安時代前期の彫刻をこよなく愛するものとしては、記述がこれだけなのはちょっと寂しいが)。


2 昔の教科書(『高校日本史』)で、鎌倉彫刻の登場はどう描かれていたか

 そうした中、1982年『高校日本史』において、他の時代と比較して彫刻史の記述が妙に充実している部分がある。それは鎌倉時代の彫刻の扱いである。
 そこにはどう書かれていたか、以下紹介していきたい。

 まず、平安時代末期から鎌倉時代の仏師は京都仏師と奈良仏師に分かれていて、京都仏師は貴族の求めに応じて造像を行い、奈良仏師は南都の寺院の仏像の制作と修理にあたっていたことが述べられる。その上で、「源平の争乱のさい戦火にあった東大寺・興福寺の再建事業には、これらの仏師が総動員されたが、13世紀にはいって、奈良に運慶や快慶があらわれると、彫刻界は奈良仏師に主導されるようになった」と続く。
 そして、この時代の彫刻の特色と背景について、「武士の好みにあった写実性と剛健さにあるが、それは、天平時代の彫刻の再生でもあった。このことは、奈良仏師が天平彫刻に日々親しみ、それから大きな影響を受けていたためと考えられる」と述べられる。
 最後に、代表作品として、「運慶・快慶らの合作による東大寺南大門の金剛力士像、運慶とその弟子の手による興福寺の無著像、康弁作の天灯鬼像・龍灯鬼像などがある」とし(なぜか無著のみで世親の名はない)、「この時代の作品には作者の署名のあるものが多いが、それは、仏像製作者が自己の責任と誇りを明示したからであると考えられる」と締める。

 長い! 他の時代の彫刻史の記述と比べて、明らかに充実度が違う。飛び抜けていると言っても過言ではなかろう。しかし、今の私たちから見れば、ツッコミどころがかなりあるようにも思える。


3 昔の教科書の鎌倉彫刻の記述を現代の視点で見直すならば

 まず「奈良仏師」についてだが、現在では、興福寺との深い関係を持つ仏師の一流であって、必ずしもその活動は奈良の寺院に限定されるものではないということがわかっている。実際、運慶へと至る奈良仏師の流れの中に位置する康助や康慶は、院や摂関家関係の造像も多く担当している。
 また、「13世紀にはいって、奈良に運慶、快慶があらわれると」とあるが、運慶は1186年に興福寺西金堂の本尊再興に携わっている。つまり、12世紀のうちに彼らの南都復興事業への関わりは始まっているのである。「13世紀」とあえて明記したのは、東大寺南大門金剛力士像の造立(1203年)を重要視するあまりのことかもしれない。

 奈良仏師は日常から奈良で天平彫刻をよく知る位置にいたために、それを鎌倉彫刻として「再生」させたのだという記述については、どうだろうか。
 確かにそうした一面はあり、今日においても重要な視点と言える。しかし運慶らの彫刻は奈良時代の仏像だけでなく平安時代前期の彫刻から学んでいるところも大きかったと思われる。快慶に至っては、平安時代後期の定朝の様式を整理し、明快にしたものと現在では評価されることが多い。「天平の再生」という視点だけで語ることは無理があるように思える。

 運慶、快慶ら奈良仏師出身の仏師らが「彫刻界を主導」するところとなったという記述についてはどうだろうか。
 確かに1190年代後半から1200年代前半にかけての東大寺中門の二天像、大仏の脇侍、大仏殿の四天王像、そして南大門の金剛力士像に至る巨大な仏像群は、すべて康慶、運慶ら一門が手がけている。この間の彼らの派の躍進はまさに目覚ましい。しかし「彫刻界を主導」とまで言ってよいか。これについて塩澤寛樹は著書『仏師たちの南都復興』の中で、南都復興事業は「基本的には正系三派によって分け合われたとみるべき」であると繰り返し注意を喚起している(正系三派というのは「京都仏師」の円派、院派と「奈良仏師」=慶派のこと)。
 教科書の記述はこれに続いて運慶とその弟子たちの作品を紹介している。南都復興事業でつくられた「京都仏師」の作品は今日までの間に失われてしまい、伝わっているのが東大寺南大門金剛力士像や興福寺北円堂の無著、世親像など運慶一派によるものに限られ、それがそのまま教科書に時代の代表作として載っているわけである。教科書に記される代表作は当たり前の話だが現存作品であるわけだから、結果的に運慶一派がさらに重視されることにもなり、そうした流れもあって「奈良仏師が彫刻界を主導」と述べられることになったのだろう。

 一連の記述の最後に、仏師の署名を「責任と誇り」とすることに関してはどうであろうか。
 平安時代の仏像にも銘に仏師の名が書かれているものはあるが多数とは言えず、鎌倉時代に入ってそれがぐんと増えることは確かである。その意味と意義を問うことは、重要な視点である。これに関して根立研介は、快慶の阿弥陀如来立像の足ほぞの銘を例に「仏師がみずからの職を自覚し、みずからの存在を公に認知させようとした自己主張の現れ」(『ほとけを造った人びと』)と述べている。

 1982年教科書はこのことをきちんと押さえて書かれていると言える。


4 まとめ

 以上にように、1982年実教出版『高校日本史』教科書の鎌倉彫刻の文章には、現在の視点からでは訂正、あるいは補足すべき部分が多々あるようだ。ただし、当時はまだ興福寺西金堂本尊再興を運慶が担当したことが知られていないなど、時代の制約の中での記述であることは踏まえるべきだろう。当然今日の記述もまた、しばらく経てば批判され、更新されていくべきものであるのだ。歴史というのはそういうものなのである。
 それらを踏まえた上で、次のことは言えるのではないか。

 実教出版の1982年『高校日本史』の鎌倉彫刻の記述は、奈良仏師が古代の彫刻からの学びも生かしながら、貴族から武士へという大きな動きの中、南都の焼亡と復興という大きな出来事を受けて躍進したことをよく描いている。さらに、仏師たちがその職への自覚を強め、責任と誇りを署名という形で明示したことまで踏み込んで記述している。文化の中の美術の中の彫刻史の記述というスペースの制約の中、いや、そもそも教科書の記述というものがさまざまな制約のもとにあることを思えば、鎌倉時代の仏師と彫刻、そしてその時代背景まで、しっかりした記述をしようと試みている。この教科書を手にする若者たちに、鎌倉時代の仏像彫刻の登場がいかに彫刻史の画期となる出来事であったのかを伝えたいという熱意を込めた記述であったと言うことができよう。

 なお、現在の実教出版『日本史探究』では、この部分について、重源による東大寺復興が記述された後に「また運慶・湛慶父子や快慶らの奈良仏師も再建に協力し、力強さに満ちた写実的な仏像を数多くつくった」と述べられるのみとなっている。


(参考)
『仏師たちの南都復興 鎌倉時代彫刻史を見なおす』、塩澤寛樹、吉川弘文館、2016年
『ほとけを造った人びと 止利仏師から運慶・快慶まで』、根立研介、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2013年 

 

 


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