7-7 行快、師の背中を追う
百花さん 不動明王像、降三世明王像は、像高はどれくらいなの?
ゆいまくん 不動明王像は200センチ強、降三世明王像は髪を高く結っていて、約230センチだよ。
百花さん 坐像で2メートル以上なんだ。思ったより大きいのね。中央の大日如来像があまりにも大きいから、脇侍の2尊は小さめに見えちゃっているのかな。でも、そのせいだけじゃないかも。明王像なのに、怒りのオーラが控えめな気がする。
でも、この印象も見ているうちに変わってきたりするかな。
ゆいまくん そうだねぇ。大日如来像の左右は少し光が届きにくくなっているから、そう見えてしまうところもあるのかもしれないね。
百花さん 特に不動明王像がね、目を見開いて、上の歯で唇をぐっとかんで、力がこもっているようなのに、なぜか大人しい雰囲気なのよね。ちょっと、物足りないっていうか。大日如来のお供で静かに控えてます的な感じよね。
像をつくった行快自身が、控えめな性格だったのかな。
ゆいまくん 行快は、快慶に長くつき従った弟子なんだけど、生没年や出身など、ほとんど何もわかっていないんだ。
ちょっと時間を巻き戻すけど、東大寺南大門の金剛力士像がつくられたのは、1203年。運慶、快慶ら4人の大仏師が力を合わせて制作したんだ。ところが、この像をつくったのち、快慶は、運慶らと別の動きをしていくことになる。そこで必要なのが、やはり自前の弟子だよね。
快慶には有力な弟子が3人いたことがわかっているんだけど、行快はその一番手なんだよ。
はじめて行快の名前があらわれるのは、快慶作の地蔵菩薩像(藤田美術館蔵)の銘文で、そこには「開眼(かいげん)行快」と書かれているんだ。師の快慶の仕事を助け、特に玉眼(ぎょくがん)の制作を任されたということなんだろうね。造像年は書かれていないけど、快慶の肩書きから、1208年以後のこととわかっているんだ。
1216年に快慶は造仏の賞を弟子に譲る。その譲られた弟子が行快で、この時法橋となったと考えられているんだ。1219年に快慶が奈良県の長谷寺本尊の十一面観音像の再興にあたった際には、行快は「左法橋」として名前を連ねていて、この「左」は「補佐」の意味と考えられている。そして、京都府の極楽寺の本尊の阿弥陀如来像 *
を快慶が亡くなったあと完成させたのも行快なんだ。
百花さん 行快は快慶に常につき従い、師の仕事ぶりを間近で見て、ともにノミをふるってきたんだね。愛弟子だね。
ゆいまくん 快慶の死後、行快は法眼となる。快慶も法眼まで進んだので、行快は師と同じところへのぼったということになるね。
行快作の仏像は、10体ほど伝来している **。その多くが快慶も多数手がけた3尺(約90センチ)の阿弥陀如来立像で、快慶の像に比べて生々しい実在感がやや増している印象はあるけど、おおむね師の作風をよく受け継いでいるんだ。
金剛寺の不動明王像、降三世明王像は、行快作の仏像の中で唯一等身大を越える大きな像なんだ。行快は、仏師としての位こそ快慶と同じところまでいったけれども、実力の方はといえば、師との開きは簡単に埋められるようなものではないと感じていたことだろうね。この像をつくることで、改めて師の偉大さを噛みしめたかもしれないな。
百花さん んー、確かに。奈良の文殊院で見た快慶さんの文殊菩薩像、すごかったもんね。
いよいよ独り立ちとなった行快さん、2体の大きな明王像を立派に仕上げることができるだろうかって、相当プレッシャーを感じていたかもね。
ゆいまくん 不動明王像は、ずんぐりしている上にどこか沈鬱な雰囲気があるし、それに、前からではわかりにくいけど、正面から側面へ体のつながり具合がやや不自然とする指摘もあってね、苦労しながらつくった様子が感じられるんだ。はじめて大きな像を自分が中心となってつくることになって、なかなか思い通りに進められなかった結果とも思えるね。
百花さん でも、降三世明王像の方は、頭や体に動きがあって、生き生きとした印象よね。顔を斜めに向けて、カッコよく見得を切る役者さんみたい。太い眉をあげ、目を剥いて、上の歯を見せている顔つきは力強いのに、親しみも感じられて、とてもいい(♡)
不動明王像から着手して、その反省点をあとでつくった降三世明王像で生かして頑張ったとか。
ゆいまくん 降三世明王像の方が、動きが加わっているのに、不自然なところはないから、百花さんの言うような順序で制作したということは考えられるかもね。
百花さん 手の構えもいいじゃないの。左手はこぶしをつくっているのかな。右手でもっているのは、密教の法具だっけ? それをバーベルっぽく持っているのも面白いね。
ゆいまくん この法具は、五鈷杵(ごこしょ)というんだよ。
百花さん このお寺に入口の二天王像を見た時、ゆいまくんが、大きな像をつくるって難しさがあるって言っていたけど、本当だね。この2体の明王像から、行快さんの苦心がしみじみ感じられる気がしてきた。やっぱり師匠はすごかった、まだまだ自分なんて足元にも及ばない、でも少しでも近づきたいって行快さんは思いながら、制作を行ったんだろうね。
ゆいまくん あ、そうだ。不動明王像、降三世明王像の足、下半身をくるんでいる衣の膝(ひざ)のあたりを見てみて。膝頭のところにはあまり襞(ひだ)を刻まず、その内側に縦のしわを入れているのがわかるかな。これ、快慶から受け継いだものなんだよ。快慶も不動明王の坐像を手がけていてね、脚部の襞はこうした形で作っているんだ ***。
百花さん 行快さんは、快慶さんの作風を細部まで大切に受け継いでいたんだ。師の亡き後も、その背中を追いかけ続けていたんだね。
(注)
* 京都府城陽市極楽寺に伝わる阿弥陀如来立像の納入品から、1227年には快慶はなくなっていたとわかる。
**
このほかの行快作の仏像としては、銘記によってわかっているものとしては、京都府の極楽寺阿弥陀如来像、大報恩寺釈迦如来像、聞名寺阿弥陀三尊像、滋賀県の阿弥陀寺阿弥陀如来像、西教寺の阿弥陀如来像と脇侍像、浄信寺阿弥陀如来像があり、また、京都の三十三間堂にも行快の銘のある像が1体ある。作風から行快と考えられているものには、大阪府の北十万阿弥陀如来像と浄土宗所有の阿弥陀如来像があり、ほかに三十三間堂の無銘の像のなかにも行快の作風に近いものがある。これらはすべて3尺か等身大の像である。
*** たとえば、快慶作醍醐寺不動明王坐像。
→ 7-8 拝観を終えて-百花の感想 に進む
→ 第7仏 天野山金剛寺の大日如来像、二明王像 へ戻る
→ ゆいまくんと百花さんの21世紀国宝仏の旅 TOP へ戻る