7-3 カルテットの力を結集してスタート

 

ゆいまくん じゃあ、金剛寺がどのようにしてはじまったのか、少しお話していくね。

百花さん (小声で)おっ、来たな。そろそろかなと思っていたけど…

ゆいまくん 金剛寺はね、奈良時代に行基によって創建されたと伝えられているんだ。でも、そうした古い時代のことは、実際のところよくわかっていない。はっきりしているのは、平安時代の末期に阿観(あかん)という僧が金剛寺のもととなる修行の場をこの地に開いたこと、地元の有力者がそれを積極的に後押ししたこと、そして、八条院という皇族の祈願所となって発展したということだ。

百花さん 事実上の創立者は、阿観というお坊さんなのね。どんな人?

ゆいまくん 金剛寺がある河内国のすぐ西隣りは、和泉国(いずみのくに)といったんだ。阿観上人は和泉国大鳥郡の出身で、幼くして高野山に入り修行し、30代でこの地に来たんだ。

百花さん 高野山! 金剛寺は高野山との関係が深いってさっきゆいまくんが言っていたけど、創建した阿観さんが高野山から来たお坊さんだったのね。

ゆいまくん 以来、金剛寺は真言密教のお寺として、今に至っているんだよ。
 阿観上人がまず行ったのは、御影供(みえいく)、つまり真言宗の祖師である弘法大師空海の絵を掛けて供養する法要だったんだ。おそらくその時にはまだ立派なお堂はなくて、庵(いおり)のような仮堂だったんじゃないかな。天野別所とも呼ばれていたので、高野山の別所として開かれたということだね。
 その数年後、金堂、多宝塔がつくられて、いよいよ金剛寺の伽藍が整備されていく。以後、阿観上人は72歳で亡くなるまで、後半生を金剛寺の発展のためにささげたんだ。

百花さん すっごい人なんだね、阿観さんって。前半生は高野山で修行、人生の後半で金剛寺をつくって大きくしていったんだ。生涯のすべてが仏教とともにあったんだね。
 しかも、別所を設けてから数年で立派な伽藍をつくってしまうなんて、経営の手腕も一流だね。

ゆいまくん 阿観上人はさまざまな人からの助力を得て、金剛寺をこの地域の有力寺院へと育てていったんだ。多くの人との縁、つながりを持てたのは、それだけ有徳な人だったからだろうね。
 特に次の3人は、初期の金剛寺の状況を考える上でとても重要だ。その3人というのは…

百花さん 待った! いっぺんに3人出てきたら、ムリかも。そこ、はしょれない?

ゆいまくん えーっ、困ったな。この3人を抜きにしては、金剛寺の創立は語れないんだ。
 とにかく、名前をまず言うよ。1人めは八条院という天皇家の女性。次は八条院の女房で大弐局(だいにのつぼね)。あ、女房というのは身分の高い人に仕えた女官のことだよ。
 そして3人めが武士で、(三善)貞弘(さだひろ)。この地域の有力者だよ。

百花さん 八条院は天皇家のえらい女性。そのお付きが大弐局、で、武士が源…えっと貞弘ね。この貞弘っていうのが、中途半端に今っぽい名前で、ちょっと覚えにくいなあ。でも、まったく違った立場の人たちだから、区別はつきやすそう。

ゆいまくん じゃあ、この3人が金剛寺の創立にどうかかわっていったのかを話していくね。
 まず八条院から。この方は鳥羽天皇(のち上皇、法皇)の皇女だよ。同時代を生きた皇族、貴族、武家のすべてからたいそう重んじられ、一目置かれる存在だったんだ。といってもおっかない人では全然なくて、とてもおおらかな人柄だったそうだよ。

百花さん おおらかって、要するに「天然」ってことね。ふんっ。「天然」って何かと得したりするのよね。

ゆいまくん 「天然」? 今の言葉だとそういうことになるのかな。彼女のエピソードはいろいろ伝えられていてね…

百花さん おっと、そこはカットで。別の機会にお願いしまーす!

ゆいまくん …そう? 面白い話があるんだけど、残念 *。
 ま、とにかく、この方は積極的に政治の表舞台に出たりはしなかったものの、政争に敗れて不遇となった人たちを密かに庇護するなどして、結果として時代を動かしたりもしたんだ。武士が急速に台頭する激動の時代を生き抜いたすごい人であることは確かだよ。
 八条院は生涯未婚で、父の鳥羽院同様あつく仏教を敬い、若くして仏門に入ったんだ。金剛寺は八条院の祈願所となることができて、発展することができたんだよ。

百花さん その時の金剛寺はまだできたてだったんだよね。よく祈願所にしてもらえたね。

ゆいまくん 父の鳥羽院は高野山にみずから参詣しているし、八条院も高野山とかかわりが深かったから、八条院と高野山出身の阿観上人が結びつく要因はもともとあったのかもしれないね。あるいは、八条院の女房の大弐局が先に阿観上人とつながりをもった可能性もあると思うよ。

百花さん おっ、来たな、大弐局。さっきの3人の中の2人めの人だよね。

ゆいまくん 当時の皇族女性の女房は高い家柄の人でなければなることができず、大弐局も高位の貴族の出身と考えられているんだ。八条院に仕えながら、阿観の弟子ともなり、出家後は浄覚と名乗った。初期の金剛寺を経済的に支えた源貞弘が死んだのち、別の武士が金剛寺に対して影響力を行使しようとしたことがあったんだけど、それを押し返すことができたのは浄覚のはたらきが大きかったと考えられているんだ。彼女はのち、阿観から金剛寺の院主(最も高い地位)を譲られているんだ **。

百花さん おおっ! これまたすごい人だね。
 じゃあ、3番目の源貞弘 ***。八条院や大弐局が京の高い位の人なのに対して、この人はこの地域の武士なのよね。

ゆいまくん 阿観上人と源貞弘も、いつ、どのようにしてつながったのかはわかっていないけど、貞弘はこの地域の有力武士であったわけだから、阿観がここに別所を設けてほどなく2人の出会いがあったのだろうね。少なくとも、1180年に貞弘は私領を金剛寺に寄進しているので、それより以前からのつながりということになるね。その2年前につくられた金堂も、貞弘の支援があって完成できたのかもしれないよ。
 金剛寺の金堂はつくられてから1回も焼失せず、現在に至っているんだ。といっても、鎌倉時代に2度、大きな改造を経ているので、現在の金堂から創建時の状態を知ることはなかなか難しい。だけど、金堂の大修理の際に、創建当初の木材が組物などに転用されて今も使われていることがわかったんだ ****。その古材の樹種はシイなどの広葉樹で、おそらく地元産の雑木だね。ヒノキのような高級な材ではなく、地元の樹木によってつくられたということから、この地域の武士で初期の金剛寺を支えた源貞弘の尽力によって金堂は建てられたと考えることができそうだね。

百花さん なーる。金剛寺の成立は、阿観さん、八条院、大弐局、源貞弘の4人の力の結集のたまものということね。それにしても、本当にみんな違う立場の人よね。うまいことよく集まったものね。

ゆいまくん 金剛寺の成り立ちがだいたいわかったところで、さあ、お堂の中で拝観させていただくことにしようか。

 

 


(注)
* 八条院(1137-1211年)は鳥羽天皇の皇女で、暲子(しょうし、あきこ)内親王といい、母は美福門院(藤原得子)。はじめて天皇のきさきや天皇の母でなく女院となった人物。八条院の女房だった八条院中納言(健御前、藤原定家の姉)の回想録である『たまきはる』には、八条院御所の日常が描かれており、興味深い。

** 大弐局は、国司や大宰大弐などを歴任した藤原季行(すえゆき)の子かとされる。阿観の弟子として出家し、浄覚と名乗るが、出家後も金剛寺に常住するということはなく、八条院のもとにあったと思われる。
 草創期の金剛寺を経済面で支えた源貞弘の死後、河内国に勢力をもつ石川義兼が領地を金剛寺に寄進した。しかし、のちに義兼と金剛寺の寺僧が対立関係となると、義兼を金剛寺から排除したのは大弐局(浄覚)のはたらきによるところが大きいとされる。
 その後、阿観から金剛寺院主職を譲られる。こののち金剛寺院主職は、浄覚から妹の六条局覚阿(姉と同じく阿観のもとで出家)へ、覚阿から姪の浄阿へと、女院女房によって相伝されていった。

*** 源貞弘は河内長野地域の武士。金剛寺に私領を寄進し、その免税を河内国の役所とかけあって獲得し、金剛寺の法会の継続をはからった。彼の兄弟は金剛寺の僧になっており(浄行房、仏土房)、一族をあげて初期の金剛寺を支えた。

**** 現在の金堂には、創建時、鎌倉時代の改造時、近世の修復時と、さまざまな時期の木材が使われている。調査の結果、創建時からの木材は、シイなどの広葉樹(ただし当初のままの使われ方でなく、内陣の組物などに転用されている)。鎌倉時代前期の改造の際の用いられたのは、良質なヒノキ材。鎌倉時代末期の改良時にはマツ、ツガなどの針葉樹が用いられた。なお、近世の修復時もヒノキが用いられている。

 

金堂は南を正面としている。
金堂は南を正面としている。