7-6 激レア! 大日如来と不動明王、降三世明王の組み合わせ

降三世明王像
降三世明王像
不動明王
不動明王

 

百花さん じゃあ、大日如来像の左右の仏像は? あ、そうだ。このお寺には、えっと行快(ぎょうかい)だっけ? 快慶のお弟子さんがつくった仏像があるって言ってたよね。この脇の仏像がそうなの?

ゆいまくん その前に、阿観没後の金剛寺について、ちょっと話しておくね。
 阿観上人が亡くなったのは、1207年。当時の院主は大弐局の妹の六条局(出家して覚阿)に移っていたんだけど、寺内のお坊さん、特に学頭(僧のリーダー)との関係が悪化してしまうんだ。都で女院に仕える院主と、お寺で日々修行し、また、運営などの実務にたずさわるお坊さんとの間で溝が深まっていったんだね。阿観上人が生きている間は、彼の力でうまくおさまっていたんだろうけど、その死後、とうとう争いに発展してしまったんだ。
 この紛争は20年近く続いて、かなり泥沼化したらしい。

百花さん まったく、もう。どちらも仏に仕える人たちなんだよね。なのに、何でそうやって対立したり、争ったりするかなー。せっかくイケメンの貞弘クンが命をかけて支えたお寺だっていうのに…

ゆいまくん (小声で)イケメンっていうのは、百花さんの妄想だけどね…
 結論からいうと、1226年に覚阿が院主に復帰し、対立は収束する。でも、この争いで金剛寺は停滞したらしくてね、1228年の記録によると、大日如来像の光背と台座はこの時点で未完成のままになっていたらしい。
 しかし、寺内の紛争が終わったことで、金剛寺は再び活発となり、大日如来像の光背と台座が完成し、脇の2体の仏像をつくり、おそらくそのため手狭になった金堂の改造が行われていったんだ。そして、ここで起用された仏師が、快慶の弟子の行快なんだよ。
 中尊光背の金剛界三十七尊の小仏像だけどね、本体の大日如来像とはちょっと様式が異なっていて、快慶風の生き生きした雰囲気があるとされているんだ。これらを制作したのも、行快とその一門と推測されているんだよ。

百花さん この時に活躍した仏師が行快だっていうことは、どうしてわかったの?

ゆいまくん 現在の金堂が美しい姿なのは、2009年度より9か年の事業として解体修理が行われたからなんだ(江戸初期の大修理以来400年がたち、大規模な修復が必要な状態となっていた)。でも、解体修理をするには、仏像を移動させなくてはならなくて、そのためには事前に仏像の状態を調べなくてはならない。すると、中尊の台座が傾いていたり、そのほか表面の仕上げや光背の接合部など、修復が必要な箇所が見つかったので、2010年度から金堂の三尊像も修理されることになったんだ。その過程で。不動明王の像内、背中の裏側に銘文が発見されて、そこに行快作と書かれていたんだ。
 あ、不動明王像というのは、向かって右側の像だよ。左は降三世(ごうざんぜ)明王像というんだ。

百花さん 降三世って、舌を噛みそうな名前ね。その降三世明王像の方には銘文はなかったの?

ゆいまくん そうだよ。不動明王像にだけに書かれていたんだ。

百花さん (小声で)あー、まただよ。昔の人って不親切よねー。どうせなら両方に書いておいてくれればよかったのに。これだから、ゆいまくんが、「どうだい、この2つの像を見て『同時一具の作』といえるかな」なんて、言ってくることになるんだよ。

ゆいまくん どうだい、百花さん。不動明王、降三世明王の2つの像を見て、同時一具の作だと言えると思うかい。

百花さん わーっ、やっぱ、そう来たよ。
 んーとねぇ、ちょっと雰囲気に違いはあるけど、2つの像のバランスはとれているんじゃないかな。丸まるとした瞳や、四角張った肩のラインも共通しているみたいだし。

ゆいまくん そうだね。作風は近いといえるし、それに構造が共通しているんだ *。だから、同時一具作、すなわち共に行快らによってつくられたと考えることができる。ちなみに、銘文は比較的長文で、1234年の造像であること、大仏師法眼行快、助作した小仏師として肥後公、丹後公、また願主や勧進(かんじん)にあたった僧の名 **、彩色の担当者名などが書かれているんだ。
 実は、かつてはこの2体はそれほど注目されてなくて、制作時期にしても鎌倉時代末期ごろ(その頃もう一回金堂は改造されている)かと漠然と考えられていたんだけど、銘文の発見によって像の位置づけがはっきりして、金堂の三尊の国宝指定へとつながっていったんだよ。

百花さん 不動明王像は、願成就院でも拝観させていただいたよね。運慶作のお不動さま、カッコよかったな~。願成就院の像は立っていたけど、金剛寺の像は坐像なのね。悪いけど、こちらの像はちょっともっさりしているね… 
 不動明王と対になっている降三世明王像は、どういう仏さまなの? 濁点が多い系の名前って、アニメだったら強そうな役で出てくるのよね。あと、この組み合わせ、大日如来を中尊に、左右に不動明王、降三世明王というのは、よくあるの?

ゆいまくん 明王というのがどういう仏さまなのかは、覚えているよね。

百花さん それは大丈夫! えっと… 密教の仏さまで、慈悲によって導く菩薩に対して、怒りを発して強力に迷える衆生を導くんだよね。

ゆいまくん よく覚えていたね。その明王の中でも特に重要な存在が、不動明王だ。手には剣と羂索(縄)を持ち、台座は岩を抽象化した瑟瑟座(ひつひつざ)という形式であることが多いんだ。
 一方、降三世明王の「降三世」とは、三つの世界の勝利者という意味で、すべての世界を支配するというヒンドゥー教のシヴァ神をも倒す強大な力を持つとされているんだ。

百花さん なんかよくわからないけど、とてもすごそう。

ゆいまくん でもね、その割に作例は多くなくて、不動明王を中心とした五大明王 *** の一尊として登場することはあっても、それ以外ではあまりつくられたり、まつられたりしていないんだ。さらにね、その姿は、四面八臂(4つの顔、8本の手)で立ち、各面の額には3番目の目があり、剣や矛を持って、足下にはシヴァ神夫妻を踏みつけるというとても特異なものなんだけど、この像は一面二目二臂で、坐像、密教の法具を持ち、何も踏みつけずに不動明王と同じ瑟瑟座に座っている。この像の姿は、降三世明王像としては例外的と言えるんだ。
 その上、不動明王とともに大日如来を中心とする三尊の脇侍として安置されているという例は、ほかにないんだ。

百花さん もともと珍しい像なのに、姿も、組み合わせも他では見られないのね。それってめちゃくちゃレアってことね。

ゆいまくん 絵画や図像まで広げれば、この三尊の組み合わせはある。それは尊勝(そんしょう)曼荼羅という仏画なんだ。
 密教にはさまざまな修法があり、それぞれにふさわしい本尊を前にして行うんだけど、尊勝法という修法を行う時には尊勝曼荼羅という仏画を本尊として懸けるんだ。尊勝曼荼羅にもいくつかの種類があって、その中の1つにこの大日如来、不動明王、そして2臂の降三世明王という三尊の組み合わせで描かれたものがある。金剛寺金堂の三尊はそれをもとに立体化したものと考えられるんだ ****。
 阿観上人の死後、金剛寺では対立が生じて不安定な時期がしばらく続いたけど、それがおさまって、再び隆盛に向かっていこうという時に、この金堂を新たな、さらなる霊力をともなう祈りの場としたいとする考えが高まって、大日如来像に2尊の明王像をつけ加えることにしたのだろうね。

百花さん 大日如来の光背の三十七尊も金剛界曼荼羅の立体化、さらに2体の明王像を加えて尊勝曼荼羅の立体化。二重の立体曼荼羅だ! ほかのお寺では決して見られない、激レア仏像で、パワー全開ーっ。

 


(注)
* 2像はともに、頭から体の中心にかけては四材を用いた寄木造。カヤ材を主に、ホオを部分的に使う。

** 小仏師の丹後公は、京都、三十三間堂の千体の千手観音立像のうち、6体に銘記がある丹後法師春慶と同一人物とされる。肥後公については不詳。大勧進(資金を集めて造像を進めた人)として名前がある覚実は、金剛寺中興として名前が残る阿鑁(あばん)上人と同一人物とする説がある。なお、金剛寺宝物館には、阿観上人像、阿鑁上人像として伝わる2体の肖像彫刻が展示されている。

*** 不動明王を中心に四明王を四方に配したのが五大明王である。その場合、降三世明王は東方に置かれ、南・西・北には軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王が配されるのが一般的である。東寺講堂の五大明王像などが有名。

**** 尊勝法は息災、増益(ぞうやく、生命、財産などの伸長を願う)、除病、滅罪などを願って行われる密教の修法で、平安時代後期から鎌倉時代にかけてさかんに行われた。
 この修法の際に本尊として懸ける尊勝曼荼羅には複数の図像があり、そのうち最もシンプルなものが、中央に大日如来、下方に不動明王、降三世明王を配したもので、もともとは天台宗の円珍が中国から伝えたという。金剛寺金堂三尊は、この図像を彫刻であらわした唯一の例である(なお、立体であらわした曼荼羅を羯磨(かつま)曼荼羅という)。このほか、金剛寺には尊勝曼荼羅図一幅(鎌倉時代の作)が伝来する。
 なお、醍醐寺遍照院(廃絶)にもこの三尊があったといい、高野山大伝法院の中尊大日如来像の光背にも不動、降三世の像がつけられていたと書かれたものがある(『続群書類従』八下・伝部に収められている「大伝法院本願聖人御伝」)。