7-8 拝観を終えて-百花の感想


 国宝といえば京都・奈良って思いこんでいたので、大阪府にもこんなに素晴らしいお堂や仏像を伝えるお寺があるということに、まずびっくりです。でも、もっと驚いたのは、どうしてこの仏像がつくられたのかを知っていこうとすると、そこにはとてもたくさんの人、出来事、事柄が次から次へと見えてくることでした。そりゃあ、これまでだってゆいまくんと国宝仏を見に行くと、はじめて聞く話がいろいろとあったけど、今回は格別だった気がします。高野山でしょ、女院と女房、武士と土地の寄進の話、貴族から武士の世へ、お寺における対立の構図とか、曼荼羅っ!、法会と本尊、絵画と彫刻の関係、仏師の先生と弟子… いろんな話、多すぎっ!
 こんなにも大きく広い世界を、見て、知って、感じ取りました。そう、あの金堂の格子の間からね。まったく、なんてこと!

 でも、金剛寺をめぐる話は、このあともまだ続いていくんですよね。鎌倉時代後期に楼門と二天王像がつくられ、もう一度金堂が改造を受け、次の南北朝の内乱期にはこのお寺は大きな役割をはたしたんですね。さらに、近世、近代でしょ。歴史を生き抜いた巨人っていう感じですね、金剛寺。そして現代。修理をきっかけに、不動明王像の銘文が見つかって、金堂の三尊が国宝になって、改めて金剛寺というお寺が見直され、そして河内長野市も全国的にもっと有名に…なるといいですね。

 仏師行快は、快慶のはからいで僧綱位を得た弟子とのこと。快慶はかつて、造仏賞を得られるはずのところ、運慶の子に譲ったって話、ありましたよね。快慶は傍流の仏師の立場だから、その悲哀っていうのを感じる出来事でした。
 ところが、快慶さんはのちに、もう一度位を譲っているんですね。今度は大切に育てた弟子が自分の後継者として立ちいくようにと、快慶さんは譲った。かつて譲ったのと、そのあと弟子に譲ったのとでは、その意味は全然違っていたのだと思います。快慶さん、今度は喜んで譲ったんですよね。行快さんも、さぞ快慶さんを慕っていたことと思います。
 で、行快さんは師の死後、今度は自分が大仏師となってこの大きな像をつくることになり、苦心の末、ついに完成させた。きっと、亡き師匠に「まだまだ遠く及ばないけど、ベストを尽くしました。何とかできました」って心の中で報告したかもしれませんね。行快さんに心から拍手を贈りたいです。


<百花さんから追加のひとこと>
 金剛寺と観心寺は、同じ真言宗寺院で、南北朝時代にはともに南朝の側に立ち、ともに素晴らしい仏像を伝える、河内長野市を、いや大阪府を代表する2か寺なんだそうですね。
 観心寺へは、河内長野駅からバスで金剛寺と違う方角に向かいます。本尊の如意輪観音像は平安前期の仏像彫刻としてとても有名で、ゆいまくんが、高校の歴史教科書で両界曼荼羅と同じか、その隣りのページの載っているはずだって、なんか誇らしげに言ってました。私、ぜんぜん覚えていなくて、悔しいから黙ってました。
 この観心寺如意輪観音像は、普段は厨子の扉が閉められていて、開かれるのは年に2日間、4月17日と18日だけなんだそうです。「限定公開」って言われたら、そそられちゃいますよね。それに、長く秘仏として大切にまつられていたので、美しい彩色が残っているそうですよ。