3-7 基衡、秀衡の壇のための仏像、そして奥州藤原氏の滅亡

それぞれ、黒く塗った像を集めると、当初の壇の様子に復元できる。ただし、秀衡壇は中尊像と二天王像の1体が失われている。
それぞれ、黒く塗った像を集めると、当初の壇の様子に復元できる。ただし、秀衡壇は中尊像と二天王像の1体が失われている。

 

ゆいまくん 奥州藤原氏2代目の基衡の壇のためにつくられた仏像は、現在は3つの壇にわかれて安置されているんだ。

百花さん ずいぶん別れ別れになってしまっているのね。まず、中尊の阿弥陀如来像はどれなの。

ゆいまくん 中尊像は西北壇にある阿弥陀如来像だよ。脇侍は西南壇の観音菩薩、勢至菩薩像。そして、六地蔵と二天王像は中央壇のもの。これが本来の一具として、基衡の壇のためにつくられた仏像と考えられているんだ。これらの仏像は、すべてカツラ * の割矧造によってつくられているという共通点があるんだ。

百花さん えーっ、そんなに分かれていたら、あっち見たり、こっち見たりしないと。こりゃ、大変。

ゆいまくん まずは、西北壇の阿弥陀如来像を見てみよう。どんな印象かな?

百花さん 丸顔で、安定した姿の像だね。中央壇の阿弥陀如来像と同じような感じ。しいて言えば…ほおからあごにかけてすっきりとしていて、全体にくっきりと明るい感じがするかな。
 その脇侍は西南壇の方にいっちゃっているんだね、って…キャー!

ゆいまくん 百花さん、どうした?

百花さん ヤバっ! ヤバいよ、この脇侍の菩薩さま。何頭身? 特に、向かって左側だから、勢至菩薩像かな。体をちょっぴり「くの字」にまげていて、可愛すぎる(♡) スレンダーで、足、長すぎっ! 表情もすてき。ほら、見てよ!

百花さんイチオシの勢至菩薩像(現西南壇)
百花さんイチオシの勢至菩薩像(現西南壇)

 ゆいまくん いや、見ているけど…


百花さん それから、六地蔵と二天王は中央壇だったね。六地蔵は…やっぱり静かに立ってる。それでもって二天王像は、そうそう、この躍動感ある姿。すごいねー。鋭い目線で斜め下をにらみつけていて、とっても強そう。小顔で細身なのも、西南壇の脇侍像と一体感、ばっちり。なるほどねー。今はあっちこっちにあるこれらの像を集めて元通りにしたら、調和がとれた一具作だね、確かに。
 この11体は、2代目の基衡が亡くなる前に自分のためにつくらせたものなのね。

ゆいまくん 基衡が亡くなったのは、1157年ごろとされているんだ。では、仏像もそのころにつくられたのかというと、そう簡単には決められないんだ。それはね、清衡による中央壇だけがあったところに、奥の壇が増設されたその経緯がわかっていないからなんだよ。
 奥州藤原氏の2代目をついだ基衡が、父にならって壇をつくり、自分もそこに葬られることを生前から想定し、用意をしていたのなら、基衡壇の仏像は基衡が亡くなる前後か、もしくはそれよりさらに前ということになるだろうね。しかし、両脇奥にも壇をつくろうを決めたのは3代目の秀衡かもしれない。その場合、基衡の壇の仏像をつくらせたのは秀衡ということになるわけだ **。

百花さん 基衡壇の仏像の年代を絞り込んでいくのは難しいということね。

ゆいまくん しかし、そのどちらであったとしても、清衡は当時の京都仏師がつくる最高峰に相当する仏像の安置を願い、基衡の壇の仏像は、中央壇の仏像の様式を踏まえながら、独自の美意識を加味してつくらせた像であるということは言えるんじゃないかな。そう考えれば、この2つの壇の仏像の作風の違いは説明できるよね。

百花さん 3代目の秀衡の壇の仏像は、ここまで清衡、基衡の壇の仏像として登場していない、残った像ということになるのね。残ったというのは、ちょっと失礼な言い方だけど。

ゆいまくん 秀衡の壇の本来の仏像は、西北壇の観音・勢至菩薩像、西南壇の地蔵菩薩像と二天王像の向かって右側の像となるね(当初の阿弥陀如来像と二天王像の片方は亡失。二天王像のうちの向かって左の増長天像は、新たにつくられ補われたもの)。
 これらの像の材質は、針葉樹材と広葉樹材が混在しているんだ。像の特色も、清衡のための中央壇像のような端整さ、基衡壇の像ような可憐さやキレの良さは影を潜め、やや茫洋としているというか、ぎこちなさが感じられるように思うよ ***。

 

現西南壇の天王像。動きやバランスがややぎこちない。
現西南壇の天王像。動きやバランスがややぎこちない。

 

ゆいまくん 秀衡の死は1187年。晩年、頼朝と不和となった弟の義経を受け入れ、息子たちに団結して頼朝の攻撃に備えるよう遺言したと伝えられている。しかし、秀衡亡き後の奥州藤原氏にとって、強大な鎌倉幕府の力をはねのけることは困難だったんだ…

百花さん じゃあ、その先に来るのは…

ゆいまくん そう、奥州藤原氏は秀衡の死の2年後、滅びの時を迎えるんだ。

百花さん 約100年の間栄えた奥州藤原氏も、最後が… それじゃあ、秀衡壇の仏像の材質が統一されていなかったり、清衡、基衡の像に比べて精彩を欠いていたりするのは、奥州藤原氏に迫ってきた厳しい情勢が背景にあったためかもしれないのね。

ゆいまくん 秀衡のあとをついだ泰衡(やすひら)は義経をかばいきれなくなり、家臣の弁慶ともども死に至らしめてしまう。しかし、その直後、泰衡は頼朝に攻め滅ぼされてしまったんだよ。
 勝利した鎌倉幕府は平泉の寺院の保護に努めたんだけど、直接この寺を開いた奥州藤原氏が滅んでしまったことはやっぱり大きくて **** 、次第に寺運は傾いていったんだ。記録によれば、中尊寺には釈迦堂、両界堂、二階大堂などたくさんのお堂があったと知られるけど、そのどれも今日まで伝わっていない。発掘調査も行われているけど、かつてあった場所さえわかっていないお堂が多いんだ。
 江戸時代、この地を松尾芭蕉が訪れ、一句を詠じた。有名な句だから、百花さんも聞いたことがあるんじゃないかな。
 「五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂」。
 毎年の五月雨もここだけは降り残したのであろうかというこの句の通り、金色堂の輝きはかつての奥州藤原氏の栄光を今に伝えているんだよ。


(注)
* カツラは広葉樹。寒冷地で自生することができ、比較的均質で狂いが少なく、彫刻に向く材である。

** 1950年に実施された奥州藤原氏遺体の調査によると、基衡の遺体は長く病床にあった様子はなかったとされる。基衡は突然の病気のために、自らの葬送について定めないままに亡くなったのであろう。そうであるならば、奥の2壇の増設を行ったのは3代秀衡ということになる。秀衡は、父基衡と自分もまた祖父の清衡と同じように金色堂内に葬られることを願い、基衡の壇、基衡壇のための仏像、自らの壇、そのための仏像を順次つくらせた。そこで生じた時間差によって、壇の意匠や仏像の様式に違いが生じたのではないだろうか。
なお、基衡は12世紀はじめの生まれと考えられている。清衡の最初の妻およびその間に生まれた子は後三年合戦で殺害されており、基衡は清衡がその後に迎えた妻との間の子である。しかし、この女性(基衡の母)が金色堂棟木墨書に名前のある「平氏」であるかどうかは不詳。

*** 3代目の秀衡は、仏教都市・平泉の町を充実させ、奥州の豪族支配を進め、陸奥守や鎮守府将軍に任ぜられて名実ともに奥州の支配者となったことで、高く評価されている。しかし、かつて奥州に激しく介入してきた源頼義、義家の直系の子孫である頼朝が関東の武士の政権を誕生させたことは強いプレッシャーとなったことであろう。また、初代の清衡以来、砂金の生産も減少し続けていていたとする推測もある。

**** 奥州藤原氏が活躍した12世紀と滅亡後の13世紀の平泉の出土陶磁器を比較した研究によると、13世紀の出土品は前世紀に比べてかわらけで2000分の1、国産陶器は1000分の1、輸入陶磁器は50分の1であるという。奥州藤原氏滅亡後の平泉の凋落は明らかであり、幕府による保護政策があったとしても、中尊寺の経営は非常に苦しいものになったと考えられる。
なお、4代目の泰衡の首級は頼朝によって晒されたのちに平泉に戻され、金色堂の壇下に円筒形の櫃で安置された。