3-8 拝観を終えて-百花の感想

 

 今回の拝観は、ちょっとしんどいところもありました。正直なところ。
 もちろん参道の坂でへたってしまったのもありますが、それ以上に、ゆいまくんのお話が重かったかな。
 奥州藤原氏の初代の清衡が2つの戦いを生き延びて、仏の助けを借りながら平和な奥州をつくろうとしたこと。3代が眠る金色堂と壇上の仏像のきらびやかな様子。そのすごさはとてもよくわかりました。それだけに、最後には滅亡していったという事実に、悲しくなりました。歴史ってほんとうにダイナミック、ってか、ザンコクですね。話を聞きながら、気持ちが上がったり、下がったりして、ちょっと苦しかった… 今見えている仏像をつくってきた奥州藤原氏が滅び去った話のところでは、胸がつかえて、言葉少なになってしまいました(お腹がへって声がでなかったということもあるけど)。
 あと、各壇の像が入れ替わっているという話では、あっちの壇、こっちの壇と見回すことになって、大変。長い時間の中で、一部の仏像が失われたり、安置場所が替わってしまったりといったことも起こるんですね。でも、それを様式と材質・構造の両面から復元していく筋道には、興味が持てました。

 金色堂の仏像は、阿弥陀三尊を中心としているのですから、阿弥陀仏と極楽浄土への信仰によるものですが、直ちに往生することができなかった場合でも六地蔵の救済、二天王の導きによって最終的には阿弥陀の浄土に生まれ変わりたいという強い願いをあらわしているのですね。後三年合戦ののち、清衡は中央の介入を避ける手だてを講じながら豊かな大地を取り戻すために一歩一歩着実に行動していったということですが、最期の時に向けても必ず救われることを願って、金色堂の安置仏を構想したのですね。きっと、考えに考えた上でこのような配置にしたのでしょう。

 最初は中央の壇だけが金色の世界の中にあったのですね。現在の3つの壇、33体の仏像に比べて、中央壇だけだったときの様子を想像すると、今よりもギュっと凝縮されたような空間だったのでしょうね。
 そうそう、清衡さんは2度、境界線を越えたんですよね。1度目は奥六郡の境を越えて平泉に館を移した時。そしてもう1度は、自分の遺体を金色堂の壇下に納めさせた時。これまで拝んでいたお堂に、亡くなったら入っちゃうって、それって拝まれる側になっちゃうってこと? 常識破りの境界線突破って感じですよね。ここは行くべきだってなったら、もう脇目も振らずに行く! すごいな、キヨちゃん。マジ、リスペクトっす。

 その清衡さんがつくらせた仏像もすばらしいけど、それ以上に心惹かれたのは、基衡さんのための壇の仏像です。脇侍の菩薩は可愛らしく、二天王像はキレッキレで、とってもいい感じ。フィギアで売り出したら、真っ先に買いたい!
 三代目の秀衡壇の像はややまとまりに欠けるということですが、それが奥州藤原氏の滅亡を目前にした時期であったためなのかも。しんみりです。
 奥州藤原氏の時代はおよそ100年間で幕を閉じましたが、しかしその後も金色堂は800年以上の歳月、この地で立ち続けて今も輝き続けているんですから、すごいですね。その重み、しっかりと噛みしめたいです。


<百花さんから追加のひとこと>
 金色堂や讃衡蔵の北側エリアに食堂があって、その名もかんざん亭。金箔のっけのケーキとアイスぜんざいで迷ったので、両方いただきました。一時はへろへろだった私もこれで復活!
 金色堂の拝観は讃衡蔵(さんこうぞう、寺内の宝物館)と共通になっています。讃衡蔵には、金色堂諸像とともに国宝指定となっている天蓋(中央壇の仏像の上にとりつけられていたもの)など、金色堂関係の宝物が見られます。金色堂以外のお堂に伝わった仏像や仏具もたくさん展示されていて、今は失われてしまった中尊寺のはなやかな伽藍の片鱗が感じられます。
 金色堂では、全体の華やかさ、素晴らしさだけでなく、1体ごとの魅力や違いもぜひ見てほしいです。私の「押し」の像、忘れずに見てね。

 

中尊寺一山の宝物を展示する讃衡館
中尊寺一山の宝物を展示する讃衡館