3-11 中尊寺金色堂堂内諸像 関係年表

 

850年 寺伝によれば、慈覚大師円仁が平泉に一寺を開き、これが中尊寺のはじまりという。
9~10世紀 北上川中流域に6つの郡が置かれる。(奥六郡)
1051年 前九年合戦はじまる。
1056年 藤原清衡、生まれる。父は藤原経清、母は安倍頼時の娘。
1062年 前九年合戦終わる。安倍氏滅亡。清衡の父、藤原経清殺される。
1083年 後三年合戦はじまる。
1087年 後三年合戦終わる。清原氏滅亡。
1088年 朝廷は後三年合戦を私戦とみなす。源義家、陸奥守を任期を残して罷免され、奥州を去る。

1091年 藤原清衡、関白藤原師実に馬を進上。(1104年、1111年、1112年にも摂関家に貢馬を行う)
1094年 『中右記』に「兵衛尉清衡」の名前があり、藤原清衡のことか。そうであるならば、清衡は上京して、将来の奥州支配を見据えた活動を行っていたことになる。(同書、1097年には「平清衡」の名も見える。妻の氏を名乗ったものか)
1094年~1104年の間(嘉保年間、または康和年間) 藤原清衡、居館を平泉に移す。
1105年 藤原清衡、関山に最初院(多宝寺)をつくる。中尊寺建立のはじめ。
1107年 中尊寺に大長寿院(二階大堂)をつくる。
1124年 中尊寺金色堂つくられる(上棟)。金色堂中央壇仏像もこの頃の作と考えられる。
1126年 藤原清衡、中尊寺鎮護国家伽藍一区を建立、落慶供養を行う。
1128年 藤原清衡、死ぬ。73歳

1129年~1130年 清衡の子の惟常と基衡が争い、基衡が勝利。奥州藤原氏2代目となる。
1157年? 藤原基衡、死ぬ。
1176年 藤原秀衡(奥州藤原氏3代)が亡父基衡の追善のために『紺紙金字法華経』を写経。その奥書より、この時までに金色堂内に基衡のための壇がつくられていることがわかる。(基衡壇仏像造立の下限
1187年? 源義経が奥州藤原氏を頼り、平泉に来る。
1187年 藤原秀衡、死ぬ。
1189年 源義経、藤原泰衡(奥州藤原氏4代)に攻められ、自害する。
1189年 源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす。平泉の僧ら、中尊寺などに関する資料(「寺塔已下注文」)を頼朝に提出するとともに、保護を求める。(秀衡壇仏像造立の下限

1192年 頼朝、鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建てる。奥州合戦での敵味方の死者を供養するため。中尊寺大長寿院(二階大堂)にならってつくる。現存せず。
1195年 頼朝、平泉の寺塔の修理を命ずる。
1288年 鎌倉幕府の命により、金色堂覆堂を修造。
1327年 この年書かれた「中尊寺衆徒等解文案」によれば、金色堂は内陣板敷や仏壇は朽落し、仏像は顛倒してしまうほど、傷みが進んでいたという。
1337年 中尊寺焼亡。金色堂は残る。
15世紀ごろ 覆堂を建て替える。(現在、境内で保存されている旧覆堂)
17世紀 金色堂で盗難。阿弥陀如来像1体が奪われる。
1689年 松尾芭蕉が中尊寺を訪れる。
1699年 仙台藩による金色堂修理。
1704年 江戸にて金色堂諸像を出開帳。中尊寺堂塔修理の費用を得るため。

1897年 金色堂修理。(国の補助金を得た文化財建造物の第1号)
1897年 金色堂、国宝指定。(戦前の制度、現重要文化財)
1909年 中尊寺本堂再建。
1930年 金色堂修理。
1950年 金色堂内の奥州藤原氏遺体を調査。
1951年 金色堂、国宝指定。(建造物の国宝指定第1号)
1955年 讃衡蔵(宝物収蔵庫)完成。
1956年 金色堂堂内諸像が重要文化財に指定。
1962年~1968年 金色堂解体修理。
1979年 中尊寺境内、特別史跡に指定。
2000年 新讃衡蔵、完成。
2004年 金色堂堂内諸像が国宝指定される。
2011年 「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」がユネスコの世界文化遺産に登録される。