2-7 このお堂にしてこの仏像、鍵を握るのは融通念仏?


ゆいまくん ところで百花さん、ちょっと、中尊の阿弥陀如来像の上の方を見てもらえるかな。

百花さん 上って天井のこと? 黒いし、暗いからよくわからないけど… あれっ、真ん中の仏さまの上だけ高くなっている?

往生極楽院の中はこんな感じ
往生極楽院の中はこんな感じ


ゆいまくん そう。天井の高さを上げているんだけど、全体的にそうしているのではなく、中央だけを逆V字の形で高くしているね。これ、小舟を伏せたような形を思わせるので、舟底(ふなぞこ)天井といい、このお堂の見どころともなっているんだ。もし、あの部分を高くしていなければ…

百花さん 中尊の光背がつっかえて、入りきらないかも。

ゆいまくん そもそも寺院において中心となるお堂は、瓦葺きの高く大きな屋根をもち、それを支える太い柱や梁(はり)によって堅牢に建てられるものだよね。ところが、この往生極楽院のお堂は住宅建築のようにこじんまりとしたつくりをしている。
 でも、安置されている阿弥陀三尊像はお堂とは不釣り合いであるかのように大きく、内陣(ないじん、堂中央の本尊をおまつりする空間)になんとか納まっているといった印象があるよね。
 もし、仮にね、このお堂ができたときの本尊はこの三尊ではなくて、もっと小振りなサイズの仏像で、あとになって何らかの事情でこの大きな三尊像を迎えることになったとするよ。そうしたら光背が入りきらないとなって、天井が今見るかたちに改造されたっていう流れになる。

百花さん それじゃあ、このお堂と仏像は本来のセットではなかったかもしれないってこと? それが、もうひとつの「一具といえるのか」問題ということなのね。

ゆいまくん わかりにくいのだけど、実はこのお堂の天井には絵が描かれているんだ。光が届きにくい上に堂内全体が黒ずんでいるので(江戸時代の記録によれば、正月の7日間と毎月の晦日に護摩を焚いていたそうで、その煙の影響もあると思われる)、肉眼ではほとんどわからなくなっているけど、かつては極彩色(ごくさいしき)に荘厳(しょうごん)されていたんだ。舟底天井には、空を舞って、歌ったり、楽器を奏でたりして阿弥陀仏をたたえる諸菩薩が青色をバックに美しく描かれていたんだよ * 。
 では、その絵画はいつ描かれたのか。それは、鎌倉時代以後だとする説がある。だとすると、仏像とお堂の絵の年代が離れていることになる。

百花さん それじゃあ、お堂と本尊は本来一具ではなかったということになるね。のちの時代に像がどこからか移されてきて、入りきらないからお堂が改造されて、その時に絵画が描かれた…そういうことになるのかな。

ゆいまくん でもね、お堂が大きく直されたのなら、床や柱などに何らかの痕跡が残るはず。ところが、このお堂は1950年代に解体修理されているんだけど、その際の調査で改変の跡については報告されていないんだ。
 このことをを重視すれば、お堂は改変されていない、すなわち天井の一部を高くして大きな仏像を納めるというのははじめからのものであったと考え、もともと建物と仏像は一具であるという結論になる。

百花さん この問題に完全に決着がつくのには、さらに調査や議論が必要なのかな。
 それにしても、仏像について考えていくと、建築や絵画も関係してきちゃうのね。こりゃ大変だ。考えなくてはいけないことがありすぎでしょう。

ゆいまくん そうだよ。だから面白いんじゃないか。

百花さん 難しくて、たくさん考えてもなかなか結論に行き着けないことが面白いなんて、それはヘンタイだな。ゆいまくんは正真正銘、立派なヘンタイさんです!

ゆいまくん 「りっぱなヘンタイさん」って、どういうこと? だけど、せっかくこんなすばらしい仏さまに出会って、「大きいな、古そうだな、穏やかなお顔だな」でおしまいじゃあ、もったいないよ。それでね…

百花さん もしかして、まだ続きが…

ゆいまくん もちろんだよ。このお堂と仏像がもともと一具であったとするね。その場合、どうして不釣り合いなほどに大きな仏像をこのお堂にまつったのか、その意味を考えることが必要となるわけだ。

百花さん そうきたか。うーん… 
 あ、そうだ。融通念仏、1人の念仏は万人に、万人の念仏は1人の往生に通じるっていう、大原に来た良忍さんがたてたとされる考えだったよね。それってこの三尊像と関係があったりしないの?

ゆいまくん 阿弥陀三尊像の勢至菩薩像の銘文に書かれていた年は、1148年だったね。この時、良忍はすでに亡くなっていて(良忍の没年は1132年)、そのあとを継いだ本覚房縁忍(えんにん、融通念仏二世とされる)という方が大原の来迎院(らいごういん)を中心に活躍していたんだ。そして、当時の貴族の日記から、極楽院(現往生極楽院)における縁忍の活動が読み取れるから、極楽院も融通念仏とかかわりを持つ寺院であったと推測できる ** 。融通念仏とこの三尊像は、大いに関係がある…かもしれないね。
 ところで百花さん、この阿弥陀三尊像の特色、この仏像ならではっていう特質は何だろうね。

百花さん (小声で)ゆいまくんの質問、急に来るんだった。油断してたよ。
 ええとね、それは、来迎の形を示していることと、お堂と不釣り合いに感じるくらい大きいということ…

ゆいまくん そうだよね。この三尊像は、中尊が来迎印の阿弥陀如来坐像、脇侍が大和座りをして臨終者の魂を迎える姿をしているね。そして、この姿をした像は、終焉に向かおうとする方の枕辺に置かれて、往生を願う儀式を行う際の本尊とされるためにつくられることが多かったと考えられるんだ ***。でも、それだったら、ここまで大きな像である必要はないとも考えられるよね **** 。

百花さん ということは? この大きさでつくられているのは、具体的な誰かの往生を願うためというよりは、往生を願うすべての人が極楽へと行けるようにとみんなで願うための像だから? それってつまり…融通念仏のための本尊としてつくられたということになるのかな。

ゆいまくん 大原の念仏者にふさわしいこの瀟洒なお堂で、すべての人々が往生できることを願って声を揃える僧らの姿。その中心に鎮座し、祈りを受けとめているのが圧倒的な大きさの来迎の三尊像。このような宗教的機能を担うためにつくられたのがこの阿弥陀三尊と考えることができそうだね。

百花さん このお堂で唱えた念仏が往生を願うすべての人に届くようにと信じて、日々、信仰を同じくする僧らが三尊を囲んで声を合わせていたのかな。このお堂で。


(注)
* 往生極楽院を出て、拝観順路に沿って進むと出口の近くに円融蔵という宝物館があり、入場できる。往生極楽院の天井画が復元展示されている。

** ここで参考となるのは、吉田経房の日記『吉記』と平親範の出家後の日記『相蓮房円智記』である。なお、この両者は姻戚関係にある(義理の兄弟)。『吉記』によると、吉田経房は1174年2月16日に大原の極楽院や来迎院を訪れた。その記事に、極楽院は真如房上人創建で民部卿に相伝されていること、来迎院は良仁(良忍)の創建で今は本覚房上人(縁忍)が住むと書かれる。民部卿は平親範のことである。また、『相蓮房円智記』から、同年の6月5日、平親範は縁忍を戒師(仏教の戒を授ける師)として極楽院で出家を遂げたとわかる。極楽院は平親範に伝えられたお寺であるので、出家場所の選択に不思議はないが、戒師が良忍のあとを受け融通念仏2世とされる縁忍であるところから、親範もまた融通念仏の徒と考えることができる。彼の寺である極楽院も融通念仏の影響が想定され、さかのぼって阿弥陀三尊像脇侍の銘記にある頃からそうであったとするならば、三尊は融通念仏とのかかわりのもとでつくられたと考えることも可能となる。

*** 臨終の枕辺の仏像を安置し、自らの手と糸でつないで、その導きにより往生を信じながら息を引き取る例は、『日本往生極楽記』の僧正延昌を初例として往生伝(極楽往生をとげたと信じられた人たちの伝記集)にいくつも見られる。

 

**** 中尊が来迎印を結び、脇侍が大和座りの組み合わせの阿弥陀三尊像として代表的なものは、以下の通り。福島県喜多方市の願成寺の像(中尊の像高は241センチ)、京都市の心光寺の像(中尊の像高153センチ、脇侍像は後補)、京都府南丹市の西乗寺の像(中尊の像高140センチ)、島根県安来市の清水寺の像(中尊の像高87センチ)、静岡県熱海市のMOA美術館の像(中尊の像高87センチ)。願成寺像のように丈六像もあるが、多くは半丈六か等身の大きさである。