慈恩寺(本山慈恩寺)の諸像

  山形を代表する名刹

仁王門から本堂をのぞむ
仁王門から本堂をのぞむ

住所

寒河江市慈恩寺31

 

 

訪問日 

2013年8月11日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

慈恩寺の仏像

 

 

 

拝観までの道

左沢(あてらざわ)線の羽前高松駅から北へ徒歩20分から25分くらい。

駅の北にあるスーパーマーケットの脇を通り、北東へ、慈恩寺大橋で寒河江川を渡り、田園地帯を北へ進む。最後は上り坂になる。

 

 

拝観料

700円(本堂内と薬師堂)

 

 

お寺や仏像のいわれなど

慈恩寺(本山慈恩寺)は、山寺・立石寺とともに、県内の2大名刹である。

慈恩寺のある寒河江(さがえ)市は平安時代、摂関家の荘園である寒河江荘があり、中央の文化が直接に及んだとみられる。そのため慈恩寺には平安時代の仏像、しかも都ぶりに洗練されている仏像が残る。

その後も地頭の大江氏の保護などもあって、鎌倉時代の仏像も多く伝来する。

 

宗派は、おそらくかつては興福寺系の法相宗、近世には天台宗と真言宗の兼学、現在では慈恩宗という独立した宗派となっている。

 

 

拝観の環境

本堂、薬師堂とも、堂内、近くよりよく拝観させていただける。

 

 

本堂の仏像の印象

本堂は江戸時代初期に大名・最上氏によって再建されたもの。

中央に大きな宮殿(くうでん、厨子のこと)があり、中の像は秘仏となっている。今までに数度しか開帳されたことがないという。

 

宮殿のまわりに多くの仏像が安置され、間近で拝観させていただける。

まず宮殿の前には、本尊前立ちとして弥勒菩薩坐像、左右に二天、さらにその脇に阿弥陀如来と聖観音の立像が安置されている。

中でも、聖観音像は美しい仏像と思う。一木造で内ぐりもなく、檀像風の作だが、衣文の刻み方ははいかにも達者で、鎌倉時代の仏とわかる。あごやお腹の肉付きはよく、右肩をはずして腕を巻く天衣、左足を若干遊ばせながらバランスをとる立ち姿など、すばらしい。

この像はまげがないのだが、失われたのでなく、つけられていた痕跡がないということで、不思議なことである。

 

順路に沿って宮殿のまわりをめぐっていくと、阿弥陀如来坐像(室町時代)、虚空蔵菩薩坐像(鎌倉時代)、聖徳太子立像(鎌倉時代)などが安置されているのを見ることができる。

聖徳太子像には経典が納入されていて、1314年、佐賀のお寺の僧侶が自分の血で書いたものという。約700年前のものだが、A型とわかったという。古い時代の血液鑑定が成功した珍しい例なのだそうだ。

 

 

宮殿内の秘仏について

本堂・宮殿内には秘仏本尊の弥勒菩薩像および四尊像、文殊菩薩像とその眷属像、普賢菩薩像とその眷属像、さらには如来三尊像、菩薩坐像、二天像、軍荼利明王像、力士立像が安置されているのだそうだ。いくら大型の厨子とはいえ、これだけの仏像がよくおさめられているものだと思う。

 

弥勒菩薩像と四尊像は、慈恩寺が鎌倉末期に焼失したのちの再興本尊である。弥勒菩薩像を中尊とし、脇侍に不動、降三世の二明王、釈迦如来、地蔵菩薩を脇侍としてしているというきわめて珍しい組み合わせ。

獅子に乗った文殊菩薩、象に乗った普賢菩薩はそれぞれ従者を従える。ことに普賢十羅刹女は、絵画作品には多いが彫刻の違例は珍しい(ただし4躰のみ伝来)。これらは平安時代の優品である。

特別公開の機会もあるので、以下のページも参考に。

 

寒河江市観光物産協会

 

薬師堂(手前)と阿弥陀堂
薬師堂(手前)と阿弥陀堂

 

薬師堂の薬師三尊像について

本堂に向かって右手(東側)に建つ薬師堂の本尊、薬師三尊像の中尊の薬師如来像は像高約70センチの坐像。ヒノキの寄木造、玉眼。

像の頭部内に短い銘があり、鎌倉時代末期の1310年、院派仏師の院保の作とわかる。構造も体部は前後と体側部材を寄せて箱形でつくり、内部に結束材を入れて補強するという、いかにもこの時期の院派の仏像の特色がある。

院保はこのほかに神奈川県・称名寺の釈迦如来立像(神奈川県立金沢文庫保管)を一門とともに造立している。その銘文によれば、造像年は慈恩寺の薬師如来像に2年先立つ1308年で、この時すでに法印という仏師としての最高位にあった。

 

都ぶりな華やかさがある像である。

目鼻立ちは小ぶりにつくって、品のよい顔つきである。肉身は金泥、衣は漆箔。

体部は高さ、奥行きをしっかりとるが、一方、肩幅は小さく、手もすらりと長く伸びてはいない。左足を上に組む脚部も小さめにまとめている感じがする。

 

これに対して脇侍の菩薩像は時代的には少し前、この地方で制作されたのではないかと思われ、やや素朴な雰囲気。

像高約110センチの立像。カツラまたはホオと思われる材の割矧(わりは)ぎ造。玉眼。

卵形の顔、細い目が印象的である。肉付きよい上半身、片足を遊ばせる下半身、腰から左右へ引っ張られる感じの腰布、足下で大きく弧を描く裙の襞(ひだ)は動きがあるが、ややぎこちなさも感じる。

なお、現在薬師如来の脇侍として日光・月光菩薩像と呼ばれているこの両像だが、本来は、かつて慈恩寺の子院・禅定院(廃絶)の本尊で、今は山形市内の慈光明院本尊となっている阿弥陀如来像の脇侍の観音・勢至菩薩像であったと考えられている。

 

 

十二神将像について

薬師堂後陣に十二神将像が安置されている。

像高は90センチ前後、ヒノキの寄木造または割矧ぎ造。

向かって右側から子神、丑神の順に十二躰が揃う。憤怒の形相が力強く、動きのある造形であるが、同時にポーズが自然で、誇張に走らず、鎌倉時代を代表する十二神将像といえる。ただし、一部は近世の補作の可能性があるともされる(辰、午、未、申の各神将像)。

左足のつま先をあげ、今にも次の動きへ移ろうとする子神、腰を落としながら大きく動こうとする丑神、右手を上げ、体にひねりを入れる卯神など、いつまで見ていても見飽きない。

 

 

阿弥陀堂の仏像の仏像について

薬師堂の脇の阿弥陀堂は、運がよければ拝観可能。というのも筆者が拝観した日のこと、お寺の方にお聞きしたところ、「開けられる」とのことで拝観できたのだが、この日は朝早く、他に拝観の方も少ないなど、いくつか好条件が重なったということだったようだ(別料金必要)。

阿弥陀堂には2躰の阿弥陀像が安置されているが、このうち厨子入りの像は像高50センチほどの比較的小さな坐像で、ヒノキの寄木造。平安時代後期の端正な仏像である。もとは釈迦如来像としてまつられていたらしい(あくまで可能性だが、本像を中心に本堂宮殿内の文殊菩薩・眷属像、勢至菩薩・眷属像を従えた大群像が構成されていたのかもしれない)。

 

 

その他

ほかには、境内西側に建つ三重塔(江戸時代後期の建築)の本尊、大日如来像も鎌倉時代の重要な作であるが、残念ながら非公開(本像も2014年の開帳の際に特別公開されるらしい)。

この像には納入品があり、1263年に笠間城主で仏教信仰あつい鎌倉御家人・笠間時朝が小山寺のためにつくった像であることが知られるのだが、どうして慈恩寺にもたらされたのかはわかっていない。

なお、時朝がかかわってつくられた仏像としては、茨城県・笠間市内の3寺院や京都・三十三間堂の千躰千手観音像のうちの2躰などがある。

 

 

さらに知りたい時は…

『みちのくの仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2015年

『慈恩寺の文化財』、本山慈恩寺発行、2010年

『図説 みちのく古仏紀行』、大矢邦宣、河出書房新社、1999年

『華の仏』、藤森武、東京美術、1997年

『中世の世界に誘う 仏像』(展覧会図録)、横浜市歴史博物館、1995年

『月刊 文化財』382、文化庁文化財保護部、1995年7月

「山形・本山慈恩寺の木造十二神将立像」(『Museum』480)、根立研介、1991年3月

『仏像を旅する「奥羽線」』、至文堂、1989年

『山形県文化財調査報告書』24、山形県教育委員会、1983年

『山形県文化財調査報告書』23、山形県教育委員会、1980年

 

 

仏像探訪記/山形県