立石寺の平安仏、鎌倉仏

  根本中堂と宝物館安置の仏像

宝物館
宝物館

住所

山形市山寺4456-1

 

 

訪問日 

2013年8月10日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

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拝観までの道

交通は仙台と山形を結ぶJR仙山線の山寺駅下車。山形駅前から路線バスもあり。

 

駅のホームから川をはさんで北側の山の中にお堂があるのが見える。なるほど境内全体が山。「山寺」と呼ばれることが多い立石寺(りっしゃくじ)であるが、確かに山のお寺である。入山料300円。

根本中堂と宝物館(宝物殿、秘宝館とも呼ばれる)は山の入口にあるので、駅から徒歩で6~7分の距離。立谷川(たちやがわ)にかかる橋を渡って右、旅館や土産物屋さんが軒を連ねるにぎやかな道を数分行くと案内板がでているので、それに従い石段を上れば根本中堂の前に出る。

 

宝物館は、日枝神社をはさんで根本中堂の西側にある。

根本中堂が無休で開かれているのに対して、宝物館は不定休で、多湿の日などは開けないとのこと。筆者が訪れた2013年の夏は天候不順で大雨の日も続き、参拝客も途絶えがちだったそうで、そうした日は開館を見合わせるということだった。

開館するかどうかはその日になって決まるそうで、観光シーズン中の土曜日や日曜日で雨天でなければまず開いていると思うが、念のために電話を入れてから行くのがよいかもしれない。

 

 

お寺のいわれなど

慈覚大師・円仁が平安時代前期の860年に開いたと伝える天台宗の古刹である。

最澄の時代より続く「不滅の法灯」を延暦寺とともに受け継ぐことでも知られる。

 

 * 立石寺ホームページ

 

 

根本中堂の毘沙門像、文殊菩薩像

全山の本堂にあたる根本中堂は、室町時代の再建。内陣拝観は200円。

本尊は秘仏の薬師如来坐像である。50年に1度のご開帳で、2013年がその年にあたり、日によっては山寺駅までの行列ができるほどの凄い人出だったそうだ。

なお、かつては日光、月光の両菩薩を脇侍としていたが、江戸前期に寛永寺に移され、今も寛永寺根本中堂に安置されている。残念ながら、こちらも非公開。

 

秘仏本尊の拝観はこの先当分かなわないが、本尊の厨子に向って左奥に毘沙門三尊像、右奥に僧形文殊像が安置される。暗いお堂の中、ライトで照らされて、一瞬ぞわりとするような雰囲気だが、それぞれ魅力的なお像である。

 

毘沙門天像は地方仏らしい親しみを感じさせる像。顔は小さめで、怒りを表しながらも、愛嬌のある顔立ちである。

兜を着け、右手を上げ、左手は胸の前で宝塔をかかげる。胴を絞り、右膝を曲げ、邪鬼に乗る。

ケヤキの一木造で、像高は約130センチ。立石寺に伝わる仏像の中でも古く、造像年代は平安時代前期と思われる。

左右に吉祥天像と童子像を伴うが、これらは遅れてつくられたもの。

 

僧形文殊像は生々しいというか、不思議な雰囲気がある像である。

像高は約90センチの坐像。右足を外に外して座る。カツラの割矧(わりは)ぎ造という。玉眼が入っているが、後世の改変によるものか。なかなか時代を特定しにくい像である。

僧形の名の通り頭をまるめているが、僧形文殊像によくある老相ではなく、若さを感じさせる表現で、もともとは地蔵菩薩像としてつくられたのかもしれない。

目は細く、口は小さく、顎はしっかりとつくる。顔、上半身、そしてそれを支える大きな下半身はそれぞれ存在感があり、それがきれいな正三角形を形成して、おかしなたとえであるが、小山が仏の姿をとったように感じられる。

 

僧形文殊菩薩像(根本中堂安置)
僧形文殊菩薩像(根本中堂安置)

 

宝物館の如来像3躰

入館料は200円。

中央に大日如来像、奥に伝教大師坐像、右手に如来像3躰が、ほかにも神像や懸仏が展示されている。

 

3躰の如来像は、宝物館と根本中堂の間にある日枝神社(立石寺の鎮守社であった)にご神体としてまつられていたという。それぞれ立像で、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の各像と伝えるが、神仏分離で社を出た際の扱いによるものでもあろうか、薬師如来像、阿弥陀如来像は手が失われ、印相が不明であるので本来の像名は不詳である。また、像高が釈迦像は約80センチ、薬師像は約70センチ、阿弥陀像は約50センチと異なり、本来一具であったかどうかも疑わしい。造像年代は3躰とも鎌倉後期ごろと思われる。

 

釈迦如来像は、落ち着いた鷹揚な立ち姿が魅力的な像である。螺髪の粒はひとつひとつ螺旋を描く。

顔や胸は抑揚に欠けるが、衣の線は手慣れた闊達さがある。衣文の線が二つに分かれる、いわば松葉状の衣文を多用しているのが目立つ。また、左肩の衣の処理など、かなり装飾的である。

 

阿弥陀如来像は右肩以下が失われ、やや痛々しいお姿である。

顔つき、衣の襞の流れ、あまり抑揚のない胸など、釈迦如来像と共通するが、釈迦如来像が玉眼であるのに対してこちらは彫眼である。

 

その2躰に対して、薬師如来像はかなり作風を異にする。

螺髪の粒は細かく揃い、髪際が中央でカーブする。顔の表情は起伏があって豊かである。穏やかさというよりは若々しく、どこかやんちゃな若者の面影がある。

腹部の衣の襞は同心円の円弧状に繰り返し刻まれ、リズムがありここちよい。

 

 

宝物館のそのほかの仏像

宝物館に入って正面のケース中に安置されている大日如来像は、智拳印を結ぶ金剛界大日如来像。像高約40センチの坐像。材はヒノキという。一木造。手先まで共木で、一本の木からできる限り丸ごと彫り出したいという意識でつくられている。ただし傷みが進み、脚部は後補であるのが惜しまれる。顔も摩滅が進むが、穏やかで優しい面相をしているようだ。平安時代後期ごろの作と思われる。山内の岩屋の中から見いだされた仏像なのだという。

 

伝教大師像は、入って右手奥の壁付きのケースの中に安置されている。像高約70センチの坐像で、内ぐりもない一木造。平安時代中、後期ごろの作と思われる。

この像の魅力は笑みを浮かべた顔つきである。笑い顔によって目は細くなり、見るものを暖かくしてくれる。

はだけた胸はあばらが浮き出て、額にはうねりながら筋が入っている。こうした老相は、伝教大師最澄の像というよりは、かつて寺院の食堂に安置されることが多かったという僧形文殊像である可能性が高いと思われる。

衣の線は省略気味。手は膝の上に置く。

 

 

その他

立石寺を開いたとされる慈覚大師は864年に比叡山で亡くなったが、のちに遺骨は立石寺に運ばれた、首だけは立石寺に葬られた、また遺骸が棺から飛び出して立石寺にて入定したなど、さまざまに言い伝えられてきた。

慈覚大師の遺体は、大師をまつっている開山堂(山門から30分以上登る)の背後の崖下にある岩穴に眠っていると古来伝えられ、入定窟(にゅうじょうくつ)と呼ばれている。

戦後間もない1948~1949年に調査が行われ、金箔押しの木棺が発見されて、複数の人の遺骨とともに老相の僧侶かと思われる木彫の頭部が発見された。大師が入定したときの面相を彫刻であらわしたものと推測されている(2006年、重要文化財指定)。ただし非公開。

 

ほかに立石寺本坊にも古仏が安置されるが、基本的には堂内拝観不可。

 

 

さらに知りたい時は…

「ほっとけない仏たち」5(『目の眼』470)、青木淳、2015年11月

『みちのくの仏像』(『別冊太陽 日本のこころ』200)、平凡社、2012年10月

『ふるさとの仏像』、山形市教育委員会、2011年

「山形・立石寺根本中堂木造毘沙門天立像について」(『Museum』618)、長坂一郎、2009年2月

『山形県の文化財』、山形県教育委員会、2002年

『仏像を旅する 奥羽線』、至文堂、1989年

 

 

仏像探訪記/山形県