三十三間堂の千手観音立像
千一躰の群像
住所
京都市東山区三十三間堂廻町657
訪問日
2013年7月14日、 2025年11月10日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道、お寺や仏像のいわれ
三十三間堂の千手観音坐像の項をご覧ください。
拝観料
600円
拝観の環境
三十三間堂は、昔は南側から入堂していたというが、現在の拝観入口は北側になっている。
そこに何があるか、どのような光景が広がっているのか前もって分ってはいても、それでもこのお堂に入る度に居並ぶ千手観音像の姿に息をのむ。
10列の雛壇を設け、各列50躰ずつが横に並ぶ。その500躰が中尊の千手観音坐像をはさんで左右にあるので1000躰となり、最後の1躰は中尊と背中合わせにある(拝観順路で後陣を廻って戻るので、この仏像も拝観できる)。
2列めの像は1列めの像の間に来るように立っている。以下奇数列の像は1列めの像の、偶数列の像は2列めの像の真後ろに立つ。実に整然とならんで、夢幻のありさまである。
ただ、像は上段ほど重なりあい、また拝観位置から遠くなる。
拝観位置に近い最前列および前から2列めの仏像については、よく拝観できる。
なお、お堂は東向きであるので、障子を通してよく光が入る晴れた日の午前中が断然よい。
仏像の印象
千手観音立像は像高170センチから180センチ。髪際ではかると150センチあまりである。現代の成年男子よりは小さめといったところだが、仏像のサイズでいうところの「等身大」の像である。寄木造または割矧(わりは)ぎ造。
動きを抑えた落ち着いた作風で、ほぼ直立する。顔はやや大きめにつくり、目は細めに、ほおは自然な曲面である。下半身を細く、長くし、衣の線は浅い。
脇手が縮こまったようになっているのは、群像として並べられるという制約のためもあると思われる。
平安後期の像と鎌倉時代の像
三十三間堂とその安置仏像は、平清盛の造進により平安時代末期の1164年(長寛2年)に完成をみた。しかし鎌倉時代中期の1249年、京都の大火によってお堂は炎上、この時156躰の千手観音像が助け出されたと記録にはある。
したがって、このお堂の1001躰の像の中には創建期の像(「長寛仏」通称される。「創建仏」とも)と火災後に再興された鎌倉時代の像が混在する。
造立の時期の異なる2種類の像には約100年のインターバルがある。一般的には、100年違えば仏像の特色はそれ相応に変わってくるものである。現代で言えば、最新のハイブリット車と数十年前のクラシックカーでは、外見も中身も大いに異っているようなものだ。
しかし、新しい時代に古い車の精巧な復刻版がつくられたとしたら…。三十三間堂の鎌倉再興像は、このたとえのような存在なのである。鎌倉期再興の仏像は長寛仏の規格や作風をかなり厳密に踏襲している。数としては鎌倉時代の像が過半数を大きく上回るが、あくまで長寛仏の「後補」としてつくられているのである。
こうした経緯のために、平安時代、鎌倉時代の仏像が混在していても、全体としての統一感は大変素晴らしい。
しかしつぶさに見ていくと、1躰ごと細部はかなり異なっている。最も差異が感じられるのは顔つきで、体のラインや衣の線もよく見ると異なっているのがわかる。そうした個々の違いは意外に大きく、その一方で、長寛仏と鎌倉再興仏という2つのグループ間の差異は小さい。従って、何のガイドもなく長寛仏と再興仏を見分ようとしても、それは容易なことではない。
幸い、再興仏の中には銘文を持つものが少なからずある。その多くは作者名の記載があり、湛慶や康円ら慶派の作品、院派、円派の作品が混在していることがわかる。数百躰の像を数年のうちにつくるためには、定朝の流れを汲む3派の仏師が共同して制作することが必要であり、それはおそらく創建時もそうであったのだろう(なお、長寛仏で銘文のあるものは皆無である)。
そこで、銘文のある鎌倉再興仏を基準として、銘文のない仏像の中から長寛仏と再興仏とを選り分けていくという作業が進められた結果、124躰が長寛仏、876躰が再興仏であるとの推定がされている(残る1躰は室町時代に補われたもの)。
記録によれば156躰が火事の中救出されたとあるが、現状124躰しか確認されないのは、救い出されたと言っても損傷が激しい像もその中に含まれていたためであろう。
もっともその124という数は、「確保数」であるとのこと。つまり、鎌倉再興像と推定されたものの中に、長寛仏が混ざっている可能性はなお残されているということらしい(『蓮華王院本堂 千躰千手観音像修理報告書』による)。
拝観のコツ
これらの像は群像として見たときには圧倒的な存在感があるが、何せ1001躰もの群像であり、一つ一つを丁寧に見ていくのは容易なことではない。比較的見やすい前の2列の像を中心に拝観を進めるとよい。
像には便宜上、番号がつけられている。南側の最上段の像が1号像、そこから下に向って2号、3号となり、南側最下段が10号である。再び上にあがり、最上段南から2つめの像が11号という順で、北側の最下段の像が1000号像となる。
拝観順路は北側からなので、最前列向かって右端は第1000号、その左が990号、以下980号、970号と続く。前から2段めの向かって右端が999号、その左が989号、以下979号、969号と続く。最前列は末尾が「ゼロ」、前から2列めは末尾が「9」の像と覚えておくとよい。
実際には仏像に番号表示がついているわけではないが、この並び順を知っておくと、拝観の際に役に立つ(一部の仏像には、作者を記したプレートが足下に立てられている)。
像の作者と作風について
前の2列で長寛仏(創建当初像)は、999号、919号、890号、800号、670号、659号、609号、599号、570号、569号、450号、449号、440号、359号、300号、280号、219号、160号、139号、39号の計20躰である。
長寛仏は概してゆったりつくられているように感じられる。
ことに919号像はすぐれた出来映えを見せているとされる。探してみていただきたい。
湛慶作の像は9躰あるが、すべて最前列に配置されている。第560号、550号、540号、530号、520号、40号、30号、20号、10号である(40、30、20号は、以前は東京、京都、奈良の各国立博物館に寄託されていた)。
湛慶の像がすべて最前列というのは、偶然とは思えない。おそらく蓮華王院再興の大仏師湛慶の仏像ということで、尊重され、前の列に置かれたのであろう(千躰像の中には脇手や台座の取り違えもある。像の位置もまったく動いていないとは言い切れないが、基本的にはお堂再建の時の配置が守られていると思われる)。
湛慶作の像は顔つきに張りがあり、他の像と比べるとさすがに出色の出来映えである。
湛慶を助けた小仏師である康円と康清のうち、康円の作は6躰。そのうち949号、680号、660号、60号、50号が前2列にある。一方、康清の記銘の像は見いだされていない。
快慶の弟子、行快と銘記されたものが1点だけあり、490号がそれである。
第200号、189号など6躰の作品に銘記のある春慶(丹後法橋)は、天野山金剛寺の不動明王像(1234年作)で行快を助作した「丹後公」にあたると考えられている。
しかし、大仏師の湛慶の派にもかかわらず、参加仏師も作品も少ないのは意外なことである。
円派では、隆円が参加仏師中最多の像を残す。前2列では、749号、620号、570号、519号、500号、349号が彼の作品である。顔に抑揚があり、上半身を豊かにつくっている印象がある。
隆円の後継者である昌円には309号などの作品がある。
院派仏師は院継、院承(いんじょう)、院恵(いんえ)、院賀など10人以上が参加し、作品数も3派中最大である。鎌倉時代の仏像というと慶派がすぐイメージされがちだが、実態としては前代に引き続き院派が優勢であったということであろうか。
院継は809号像をはじめ、419号、400号など。院承は600号、70号など。院恵は750号、610号、469号、350号、259号、170号、159号など。院賀は229号、140号、110号、100号などを残している。
重要な仏師の作品ほど最前列に置かれる傾向があるとするならば、4躰が最前列に置かれている院恵は、造像に参加した院派の仏師の中でも重きをなした仏師であったと考えることが可能かもしれない。彼の像は細身で顔も小さめ、プロプーションのよい姿である。
その他特色ある像について
鎌倉御家人の結縁(けちえん)銘のある像が2躰ある。北関東の名族、宇都宮氏の出身である笠間(藤原)時朝の名前が入った像で、120号像と169号像である。残念ながら作者名は記されないが、隆円風の作風とされる。
笠間時朝は従五位、長門守となり、また歌人としても知られた。神仏への信仰あつく、彼がつくらせた仏像は、今も茨城県笠間市内の3寺院などに残る。
結縁は文字通り仏と縁を結ぶことをいうが、具体的にはスポンサーとしてその像の制作の後押しをする。結縁銘はこのほかでは院派の院承作、院恵作の像にみられ、結縁をしているのはみな皇族や高位の貴族である。その中に2躰、鎌倉御家人の結縁仏があることは特筆されるべきであろう。
運慶銘をもつ仏像が1躰ある。最前列の中尊に近い位置に立つ510号像である。
この像が長寛仏であれば、運慶は1150年頃の生まれと推定されているので、十代半ば頃の作となる。しかし、本像は鎌倉再興期の像と考えられ、もちろんこの時期には運慶はすでに死去しているので、後世に入れられた偽名(あるいは後世に運慶作であると鑑定された「鑑定銘」)であろう。像の作風は院賀のものに近いという。
千躰仏のほとんどは彫眼であるが、5躰だけ玉眼の像がある。78号、80号、120号、169号、459号の各像である。
中尊の真後ろにも1体、千手観音像が立っている。この像を入れて1001体となるわけであるが、本像は室町時代の作である。もと32号、すなわち向かって左から3列目、上から2段目に立っていたのだが、つい最近にこの位置に移されてきた(それ以前、ここには法眼院有作の像が立っていた)。
近年(といっても20年以上前だが)、兵庫県の朝光寺の2躰の本尊のうちの1躰が事情は不明ながら三十三間堂鎌倉再興像の1躰が移された可能性が指摘された。それを補うために本像が新たにつくられたのではないかと考えられている。
その他(修復事業について)
絢爛たる美しさを見せている三十三間堂内だが、20世紀前半には荒れ、汽車のばい煙で仏像は黒ずみ、木組みはゆるんで多くの仏像から頭上面、手、持物、天衣の一部、台座の一部などが散落し、それらは箱詰めされて中尊須弥壇下に収納されているといったありさまであったという。
傷んだ仏像を修理するといっても、何せ1000躰もの群像であり、容易なことではないが、1936年から毎年50躰、20年計画で修理していく方針がたてられた。
しかし、まもなく日中戦争、太平洋戦争の時代となり、若者は戦争にかり出されて、ほとんど高齢の技術者ばかりという状態となった。それでも修理は続けられ、計画より1年遅れただけで、1956年に完成を見た。
これによって、仏像修復技術が途絶えることなく戦後へと受け継がれていくことができたのである。
さらに1973年から再び修復がスタートした。これはかつての大規模な修復事業とは異なり、いわばメンテナンスである。以来、千躰千手観音像は年間10~20躰ずつ修復され、一部の場所が歯が欠けたように像が置かれていないという状態であったが、それが2017年にすべて終了し、それを機にこれらの千手観音の群像は国宝指定された。
それとは別に数躰が東京・京都・奈良の各国立博物館に長らく寄託されていたが、2018年10月よりお寺に戻っている。
またしばらく経てば、再び像は順々に修復に出されていくことになるのだろうが、とにかく今は1001躰の完全に揃った状態で拝観することができる。
さらに知りたい時は…
「仏像と寺院建築大全」(『建築知識』855)、2026年2月
『千体仏国宝指定記念 無畏』(三版)、妙法院門跡 三十三間堂、2022年
「新指定の文化財」(『月刊文化財』657)、2018年6月
「特集 よみがえれ、仏像!」(『芸術新潮』2015年5月号)
『仏像修理100年』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2010年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、2010年
『国宝 三十三間堂』(改訂 第6版)、本坊 妙法院、2009年
『妙法院・三十三間堂』(『新版 古寺巡礼 京都』18)、淡交社、2008年
『妙法院と三十三間堂』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、1999年
「鎌倉時代彫刻史と院派仏師」(『仏教芸術』228)、山本勉、1996年9月
「蓮華王院千体千手観音像にみる三派仏師の作風」(『Museum』543)、山本勉、1996年8月
『南都の匠 仏像再見』、辻本干也・青山茂、徳間書店、1979年
『妙法院・三十三間堂』(『古寺巡礼 京都』14)、淡交社、1977年
『秘仏開眼』、西村公朝、淡交社、1976年
『三十三間堂』、三十三間堂奉賛会、1961年
『蓮華王院千躰千手観音像修理報告書』、丸尾彰三郎、妙法院、1957年
せきどよしおの仏像探訪記
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