3-1 中尊寺は月見坂を越えて
百花さん 今日は中尊寺の仏さまにお会いするのね。中尊寺といえば金色堂! それくらい、わかってるもん。常識~。それで、えっと… 何県にあるんだっけ?
ゆいまくん 中尊寺のある平泉町は、岩手県南部だよ。三陸海岸のある太平洋の側ではなくて、内陸の北上川沿いにあるんだ。
東北新幹線の一ノ関駅から在来線に乗り換えて2駅、平泉駅でおりて、中尊寺の参道までは北北西に1キロ半くらいだよ。歩いて25分くらいかな。途中の県道の桜並木は有名なんだ。徒歩以外では、駅から循環バスやレンタサイクルで行くこともできるよ。
百花さん 桜、きれいなんでしょうね。あーあ、その季節に来たかったなー。
案内所があって、向こうには大きな駐車場やお店があるところに来たけど、ここが中尊寺の入口なのね。
ゆいまくん そこに「武蔵坊弁慶の墓」と書かれた石碑と石塔があるから見ていこうか(石塔はレプリカに変わっている)。
源平の争乱で活躍をした源義経は、知っているよね。弁慶は義経の家来で、ともに英雄・豪傑として名高い人物だけど、彼らはここ平泉と深い関係があるんだ。
百花さん ふーん… 今はこじんまりした町のようだけど、歴史上重要な場所だったのね。
百花さん ここから参道か。森の中に入っていくみたい。上り坂が…長く続くのね。
ゆいまくん この坂は月見坂という名前なんだ。おや、百花さん、もう息を切らしているみたいだね。日頃の運動不足がたたっているのかな。
百花さん ほっといてください! でも、ここって山みたい。中尊寺ってこんなところにあるんだ。なんか、イメージと違った…
ゆいまくん 山は大げさだね。まあ、丘(丘陵)かな。この丘全体が中尊寺の寺域なんだ。関山という名称で、これは中尊寺の山号(寺院に冠された称号)にもなっているんだよ。
さて、中尊寺が関山と名づけられた丘陵上にあるということは、この寺の成り立ちを知る上でとても重要だ。中尊寺とともに平泉観光の中心となっている毛越寺(もうつうじ)* というお寺があるけど、こちらは低地につくられ、大きな池のある美しい庭園が広がっているんだ。それに対し、中尊寺はなぜこの小高い丘を選び、つくられたのか。
中尊寺をつくった奥州藤原氏の初代、藤原清衡(きよひら)は東北地方を縦断する幹線道路を整備したんだけどね、その道は中尊寺を通っていたんだ。中尊寺はその北側と南側を隔て、またつなぐ「関」のような役目を担っていたらしい **。
百花さん それでここは「関山」という名前なのね。
でもこの参道、坂はきっついけど、うっそうとした林の中の道はおもむきがあるね。
ゆいまくん そうだね。進むにつれて、心のちりが払われていくように感じるよね。
百花さん (小声で)出た! お年寄りの言葉みたいなの。「心のちりが払われる」だって…
ゆいまくん ただ、この杉並木は江戸時代に仙台藩が整備したもので、残念ながら奥州藤原氏の時代そのままというわけではないんだ。
進んでいくと、建物が道の両側に現れてきたね。中尊寺の子院(本寺に属する小寺院のこと)やお童だよ。これらも新しい建物に変わってしまっているけどね。
百花さん 中尊寺って、大きなお寺なんですね。
ゆいまくん 右手のひときわ大きなお堂が中尊寺の本堂で、その先にあるのが峯薬師堂(みねのやくしどう)。その脇にさりげなく石塔 *** が立っているよ。
百花さん これ? ほんとうにさりげなーく置かれているけど、でも、いい味出てるね。どっしりと力強くて、そった屋根や中央の丸いところもなんだかかわいい。温かみがある気がする。
ゆいまくん この参道で、奥州藤原氏の時代から伝わるものとしては、この石塔がほとんど唯一のものなんだ。彼らが築いた豊かな文化の一端を伝えてくれている貴重な遺品なんだよ。
百花さん この石塔から奥州藤原氏の美的センスが見えてくるってわけね。で、中尊寺を開き、金色堂を建てたのがその奥州藤原氏なんだ。そういえば、歴史の教科書に出てきたような記憶が…あるような、ないような…
ゆいまくん 中学や高校の教科書にも出ていたはずだよ。思い出してみて!
百花さん うーん、思い出せ…ないよ。だいたい、奥州藤原氏って、あの藤原氏の一族なの? 奥州というのは地名?
ゆいまくん 奥州は陸奥国(むつのくに)のことだよ。今の県でいうと青森、岩手、宮城、福島を合わせた、とても大きな範囲だったんだ。奥州藤原氏は、摂関家の藤原氏のとても遠い親戚で、ここ平泉を中心に3代、11世紀末から約100年の間栄えた一族なんだ。
かつて、関山丘陵の北側の北上川沿いに6つの郡が設置されて、奥六郡 **** と総称されていたんだ。奥州藤原氏は後三年合戦ののち奥六郡を治めるようになり、その後さらに勢力を拡大して、奥州全体を支配するようになっていったんだよ。
百花さん それって院政時代のことになるのかな。法金剛院の阿弥陀如来像や三千院の阿弥陀三尊像がつくられたのと同じころね。後三年合戦…だっけ? そういうのがあって、奥六郡を、さらにそのあと東北全体へと支配を広げてたんだ。順調に勢力を拡大していったのね。
ゆいまくん いや、奥州藤原氏が東北の覇者となるにあたっては、激動の時期を経なければならなかったんだ。順を追って説明していくね。
百花さん それって、長い話? コンパクトにまとめてくれるとうれしいんだけど。
ゆいまくん コンパクトにまとめたとしても…長くはなる。
百花さん わかりました。覚悟を決めました。じゃ、どうぞ(泣)。
ゆいまくん 何だか話しにくくなった気がする…
(注)
* 毛越寺は、「寺塔已下(いか)注文」(『吾妻鏡』文治5年9月17日)の記述に「基衡これを建立」とある。基衡は奥州藤原氏の2代目。中尊寺と毛越寺は仏教都市ともいうべき平泉の2大寺院であった。
** 「寺塔已下注文」によると、中尊寺は、まず山頂に一基の塔を建て、寺院の中央には多宝寺をつくり、釈迦、多宝の2仏をまつって、そこを関路としたとある。通交ににらみをきかせるということ以上に、通る人びとに信仰の場を与えたいと清衡は考えていたのだろう。
*** 中尊寺子院の願成就院に所属する。重要文化財指定。総高約125センチ。塔身に金剛界四仏(密教において、大日如来像の周りに配される重要な4仏)を意味する梵字を刻む。笠の上に宝珠をのせ、塔身の上部を細くして首部をつくり出す。こうした形の宝塔はこの地域に10基以上残っていることがわかってきて、平泉型宝塔と呼ぶことが提唱されている。
**** 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域で、胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の6郡の総称。一番北にある岩手郡は10世紀に、他は9世紀に建郡されたと考えられている。
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