聖福寺の菩薩立像

飛鳥時代後期の美しい金銅仏

住所
おいらせ町阿光坊105-278


訪問日 
2025年8月25日


この仏像の姿は(外部リンク)
青森県文化財保護課・県重宝(彫刻)



拝観までの道
聖福寺(しょうふくじ)のあるおいらせ町は下田町と百石町が合併してできた町で、青森県の東部、十和田湖から流れ出る奥入瀬川の下流域、八戸市と三沢市の間にある。
八戸駅から青い森鉄道で青森方面へ3駅、向山(むかいやま)が最寄駅である。下車後南へ徒歩約30分。向山駅の近くにタクシー会社があり、それを使う手もある。
バスの場合、八戸方面から十鉄(十和田観光電鉄)バスで「阿光坊(あこうぼう)」下車、北北西に徒歩約10分。バスの本数は1~2時間に1本といったところ。
なお、バス停から東へ数分行くと阿光坊古墳群があり、おいらせ阿光坊古墳館(2021年開館)という施設もつくられている。この墳墓群は7~9世紀くらいに築造されたもので、この地で中央に従うことなく生活を行っていた蝦夷と呼ばれた人たちの有力者の墓であるという。奥入瀬川北岸のこのあたりの地は古代より重要な位置を占める場所であったのかもしれない。

拝観は、予約等なくともできるだけ対応したいとご住職はおっしゃっていたが、やはり事前連絡をしていくのがよいと思う。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
聖福寺は曹洞宗寺院。かつては町内の南下田というところにあったが、20世紀後半に現在地に移転。
このお寺に伝わる菩薩立像は、像高25センチ弱の小さな立像で、古代の小金銅仏である。おそらく飛鳥時代後期(白鳳時代)に中央で作られ、いつの時代にか運ばれてきたのであろう。
聖福寺の開創は江戸時代前半であり、本像は江戸時代後期にこのお寺に入ったらしい。ではそれまではどのように伝来をしたのか、いつごろこの地域へと来たのかはまったく不明である。ご住職のお話では、土中していた時期もあったのではないかとのこと。また、近くの堂に安置されていたのを、江戸時代後期になって聖福寺に移したとも伝える。
その後、聖福寺は2度火災にあい、像も被災し、表面は火中したためであろう荒れが残る。また水瓶を持つ手が肘で付け直されているところや、天衣、瓔珞が切れているところもある。しかし大きく欠けたり、歪んだりはしてはおらず、火災をくぐり抜けてきた割には保存状態はよく、美しさを保っている。
なお、本像は額の上に如来像をつけておらず、尊名を観音菩薩と特定できないが、お寺では観音さまとしておまつりしている(県の文化財指定名称も聖観世音菩薩立像となっているらしい)。


拝観の環境
聖福寺の金銅菩薩立像は本堂内陣の厨子中に安置され、近くよりよく拝観させていただくことができた。


仏像の印象
頭部は大きめで、ややうつむき気味とする。正面と左右の3つに分かれた頭飾は華やかで、細かに模様を彫り出している。目鼻立ちは秀麗。キリリと引き締まって、若々しく、凛々しい。耳たぶは大きい。
正面の大ぶりな頭飾、若々しさの中に理知的で成熟した雰囲気を持つ顔立ち、ほおの自然な曲面などは、大阪府の野中寺の弥勒菩薩像を思わせる。
左右の頭飾から下がるアクセサリーと髪束の先が重なり合うようにして肩にかかる。ヘアバンドや胸飾りに花形の模様がいくつも付いていて、さらに胸からお腹にかけて大きな飾りを下げているのも美しい。
天衣はお腹の下と膝の下を横切り、さらにその下を肩から下がる長いアクセサリーが横切っているのも華やかである。左手で天衣をつかむのは例はあるが珍しいと思う。裙は短めで、足首を少し出している。
頭、上半身、下半身が前後にカーブし、S字形をなしていて、左右にもわずかに動きをはらんでいる。美しい立ち姿である。

 


その他
下にもあげた図録『金銅仏』には、本像と共通する特色を持つ金銅仏として、野中寺の弥勒菩薩像のほか、大阪・金剛寺(河内長野市)所蔵の観音菩薩立像(奈良国立博物館寄託)と東京国立博物館法隆寺宝物館の観音菩薩立像(第180号像)があげられている。


さらに知りたい時は…
『みちのくの仏像 藤森武写真展』、藤森武、山形美術館、2015年
『青森県史 文化財編 美術工芸』、青森県、2010年
「青森県の仏像(1)聖福寺金銅菩薩立像」(『月刊れぢおん青森』165)、須藤弘敏、1992年8月
『金銅仏 中国・朝鮮・日本』(特別展図録)、東京国立博物館、1988年


仏像探訪記/青森県