野中寺の弥勒菩薩半跏像

  毎月18日に公開

住所

羽曳野市野々上5丁目9−24

 

 

訪問日 

2009年1月18日、 2017年6月18日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

大阪ミュージアム・野中寺

 

 

 

拝観までの道

野中寺(やちゅうじ)は近鉄線の藤井寺駅の南。駅から近鉄バスで約5分、「野々上」バス停下車すぐ。徒歩でも20〜25分。お寺の入口は南側となっている。

弥勒菩薩像の拝観は毎月18日のみ。

本堂の右奥に進むと、方丈などの建物が並んでおり、その入口に拝観受付がある。

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺や仏像のいわれ

このあたりは、古代には丹比(たじひ)郡野中(のなか)郷と呼ばれていた。

野中寺は寺伝によると、聖徳太子が蘇我馬子に命じてつくらせたといい、河内の3つの聖徳太子ゆかりの寺として「中の太子」と呼ばれている(あと2つは叡福寺、大聖勝軍寺)。しかし、実際には野中郷に地盤を築いた船氏が氏寺として創建したといわれている(別の在地氏族の寺院ではないかとする説もある)。

船氏は王辰爾(おうしんに)の子孫である。王辰爾は5世紀末から6世紀にかけて日本列島にやってきた一連の渡来人中のいわば代表者で、それ以前(4世紀末から5世紀)に渡来した文氏が古市郷に根付いた(西琳寺は文氏の氏寺)のに対して、王辰爾の子孫たちはその西側に根拠地をつくったらしい。近くの葛井寺を創建した葛井氏も同族である。この地域は、渡来系氏族が多く住む古代の先進地帯であった。

 

しかしながら度々の火災等によって、野中寺創建時の様子がわかる史料は残らない。伽藍もまた、南北朝時代の戦火によって灰燼に帰したが、山門(南面している)を入ると、発掘調査によって明らかになった金堂、塔の跡を見ることができる。西側に塔、東側に金堂を配する伽藍は法隆寺西院伽藍に近いが、法隆寺と違って金堂と塔が向かい合わせであったようで、川原寺式にも似て(川原寺は金堂と塔の位置が逆)、いずれにしても古い形の伽藍配置であったことがわかる。出土した瓦から、主要伽藍は7世紀半ばから8世紀にかけて造営されたと考えられている。

中世に荒廃した野中寺は、近世に律宗の道場として再興され、僧の修行と学問の場として勧学院が設けられた。近代になって真言宗に転じた。

 

弥勒菩薩半跏像は、江戸中期の「青龍山野中律寺諸霊像目録」(野中寺蔵)に「弥勒大士金像」とあり、また江戸時代後期の名所図絵中に野中寺経蔵に弥勒仏金像が安置されていると書かれるところが史料に現れる最初である。ところがその後、近代への移行の時期に混乱があったのか、1918年に蔵のほこりの中より再発見されたという(同年5月21日発行の大阪毎日新聞記事)。いずれにしても、江戸時代以前の伝来については不明である。

 

 

拝観の環境

弥勒菩薩半跏像は方丈内の一室、厨子中に安置される。

前面のほか側面も開かれており、また堂内は明るく、すぐ前まで寄れるので、たいへんよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

半跏思惟、すなわち片足を下ろし、右手を顔の近くに上げて考えているような姿で、像高は総高(台座まで含めて)で約30センチ、いわゆる小金銅仏であるが、大きさを感じさせる像である。

とにかく頭部が大きい。頭と体の上半身で、大きさはそう変わらないようにも見える。2つにまとめて結われた髻とその前の頭飾もとても大きい。大きな頭部は子どもを連想させることもあってか、無垢なる美というか、そういう印象の像である。

 

顔つきは静かで、頬、額や小鼻には張りがある。側面からの顔もとても美しい。背中のラインや足の裏にはドキッとするような豊かな肉付きを見ることができる。頭上の飾りは3つに分かれ(三面頭飾)、すでに述べたように正面のものはとても大振りであり、また華やかであるが、側面のものも風になびくような花飾りがとても美しい。一方、下半身の裳から垂れる紐(別に造って付けられている)は装飾がなくそっけない。頬に近づける右手は掌をこちらに向けていて、例がないわけではないが珍しい。

全体の印象から、飛鳥時代の堅さは完全に脱し、いわゆる白鳳時代の清新な雰囲気をよく出していると思うが、その中にさらに新しい豊かな表現が込められているようでもある。

 

 

弥勒像について

弥勒は釈迦入滅後、長い無仏時代の後に、次の如来となって釈迦の救いに漏れた人を救うのだという。その成立はさまざまな仏・菩薩の中でも早い。

弥勒信仰には「上生」と「下生」の2つがある。弥勒は釈迦入滅後56億7千万年という途方もない年月ののちこの世に如来となって下生することになっているので、これを待ち望む「下生信仰」。これに対して「上生信仰」とは、弥勒菩薩が今存在する兜率天(とそつてん)という浄土への生まれ変わりを願う信仰である。その場合には弥勒下生までそのもとにあって、ともに下生し、弥勒の救済の場に立ち会いたいということになるわけである。

弥勒像には弥勒如来と弥勒菩薩がある。如来形のものは弥勒がはるか未来に如来となって下生した姿であり、菩薩形は現在兜率天にあって下生を待つ姿である。野中寺の像は髻を結い、アクセサリーをつけた姿なので、弥勒菩薩像ということになる。

 

 

銘文をめぐって(1)ー意義

この像は台座の框(かまち、台座の下の部分)に銘文をもつ。この時代の小金銅仏の銘文としては長文の方で、2文字ずつ縦書きされ、31行、計62文字になる。銘文の先頭に丙寅という年が書かれ、これは666年のことと考えられている。また、文の中程に「弥勒」の文字がある。

 

弥勒菩薩といえば、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像が有名であるが、意外なことに弥勒菩薩を半跏思惟の姿であらわすという教義上の決まり事は存在しない。弥勒はまだ菩薩ではあるが、兜率天にあってそこに上生できた人々に説法をしているとされており、思惟している姿であらわさなければならない必然性はないといえる。

半跏思惟像そのものはインド、中国、朝鮮にも存在する。しかしインドにおいては、半跏思惟の像は悟りを開く前の釈迦の姿であったり、悟りに至るために思考する菩薩一般の像である。中国、朝鮮に至って半跏思惟の弥勒像がつくられた可能性はあるが、絶対確実という遺品はない*。

日本でも飛鳥から奈良時代にかけて半跏思惟像が多くつくられているが、悟りを開く以前の釈迦像である可能性もある。広隆寺の弥勒菩薩像にしても、平安時代の史料でそう書かれているのでそのように呼んでいるのである。しかし本像は銘文によって明らかに弥勒像であることがわかる貴重な例であり、これによって、奈良時代以前の日本において弥勒菩薩を半跏思惟の姿であらわすことが確かにあったことがわかる。

したがって、この像の銘文の意義は、本像が666年という年を示す基準作例であるということと、半跏思惟の弥勒菩薩像であることが分かるという2点にある。

 

*韓国忠清南道・蓮花寺の戊寅(678年)銘四面石像の中の半跏像が弥勒菩薩である可能性が指摘されている(大西修也、『日韓古代彫刻史論』)。

 

 

銘文をめぐって(2)ー銘文解読の難しさ

野中寺の弥勒半跏像の銘文には、解読できていない部分や不可思議なところが多く存在する。

まず、縦2文字ずつ書くという形式である。この時期の金銅仏に銘文が入る場合、光背裏か台座框であるが、框の場合、一般に像を横にして一列に書かれる。この像の場合62文字と文字数が多いので、それでは入りきらなかったのであろうか。しかしその割には銘文は框の前半分をあけ、後方の半分に書かれている(このため、拝観の際には厨子の背面は閉じているので、銘文はごく一部が見えるだけである)。文字はかなり小さく、たがねで彫った文字としてはなかなか整っている。六朝風の書風という。彫りをよく見ると、鍍金をした後で刻銘をしたことがわかるそうだ。造像が終わってのちに銘文が刻まれたということは、すなわち造像と銘文を刻んだ年代に隔たりがある(追刻)可能性があるというでもある。

 

銘文の最初の部分には、丙寅年4月大旧8日癸卯開に記すとある。このうち「開」は暦の用語で、造営や治療などによい日だそうだ。つまり4月8日が十干十二支の癸卯で開にあたっている日であることを意味している。「大」は4月が大の月であることを、そして「旧」はこの頃中国より新しい暦が導入されたが、それ以前の暦によっていることを意味している。「旧暦」で4月8日が癸卯開にあたっている丙寅年は666年以外にないので、この年が666年を指すのは間違いない(ただし、「旧」については別の字ではないかとする説もある)。

なお、ここまでで13文字、すなわち全体の5分の1以上が費やされ、銘文作者の暦に対する強い関心が感じられる。

 

そのあと「誰が、何のために」という内容が書かれる。「誰が」については、「栢寺の知識(知識とは教え導いてくれるよき人、すなわち僧尼のこと。または僧尼の感化に応じて財物や労力を提供し結縁を望む在家の人々をいう。あとに118人という人数が出てくる。ずいぶん大勢である…)」、「何のために」は「中宮天皇の病気平癒のために」とあって、「誓願し奉る弥勒の御像也」と続く。最後は、「この教えに相うべきなり」とあるが、その「教え」とは何か(弥勒の「上生」「下生」といった)具体的な信仰は述べられない。

この「栢寺」だが、不明である。橘寺のことではないかなど諸説あるが、有力説といえるものはない(野中寺そのもののことではないかという説、また岡山県総社市に最近まであった「栢寺」の地名と関係があるのではないかという説もある)。

「中宮天皇」もわからない。中宮という言葉から女性ではないかと思われるが、この666年当時、中大兄皇子の母斉明天皇はすでに死去し、中大兄皇子は正式にはまだ即位していない(つまり正式な天皇は不在)。もし斉明をさすのであれば、病気平癒を願ったが亡くなったということになり、その場合その菩提を弔うなどの一文が入らないのはおかしい。なお、他の人物(孝徳天皇の皇后であった間人皇女など)をさす説もあるし、中宮と天皇を切り離して、中宮を場所と考える説もある。

そして、「天皇」である。それ以前の大王(おおきみ)にかわって天皇という言葉が使われ出したのは聖徳太子のころからとする説もあるが、天武・持統天皇の時代からとする説が強く、666年当時に果たして用いられていたのかという疑問がある。

 

このように、この像の銘文の解釈はとても一筋縄ではいかない。それほど長文というわけでないのにこれほどまでに分からないことだらけなのは何故なのかと、銘文作者に文句のひとつも言いたくなろうというものである。

 

 

銘文をめぐって(3)ー近年の論争

さて、このややこしい銘文にさらなる問題があることを指摘したのが、歴史学者で美術史にも国語学にも造詣が深い東野治之氏である。彼は論文「天皇号の成立年代について」(『正倉院文書と木簡の研究』所収)の中で、この銘文が「旧暦によって記す」とあるのだから旧暦、新暦併用の時代(もしくはそれ以後)に書かれたものと考えるべきと述べた。至極もっともな指摘である。

暦の併用が命じられたのは、実に690年。持統天皇の時代である。造立から若干の時間を経て銘文を記し、さかのぼって造立の年をそこに記入するということは当然あることだが、20年以上過ぎてというのは不自然に過ぎる。そして、666年に記したという記述が偽りであるとするなら、銘文のその他の内容についても疑われるべきという考え方も当然出てくる。また、その場合仏像そのものの造像年代も再考すべきものとなろう…

 

東野氏の指摘に対して、特に1990年代以後さまざまな議論が戦わされたことは記憶に新しい。

そうした近年の論文の主なものについては下に紹介したが、その中で最も労作といえるものは、岩佐光晴氏の「野中寺弥勒菩薩半跏像について」および麻木脩平氏の「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘」である。

岩佐氏は、天皇の呼称がいつごろから成立したのかという問題について丁寧に整理するとともに、様式の検討からもこの像が666年に造られたとして不自然でないことを論じている。麻木氏は、銘文中の「旧」と読まれてきた字は「朔」の略字であると主張するとともに、様式論から岩佐論文を補強して、やはり666年説に立つものである。これらの論文によって、一時は時代を引き下げて考えるべきかという方向に傾いていたこの像の造像年代について、666年説が再び有力になった感がある(これに対し、例えば、666年に何か特別の由緒をもった弥勒像を造像したという事実があり、そのことを記念して、ややあとにつくらられた本像にそのことを銘記したといった考え方もありうると思われる)。

 

私としては、この像を666年の作とすることにためらいを覚える。この像に向き合うと、顔や体のやわらかな肉付きの繊細な感じや装飾品の華やかさは圧倒的であるように思えるのである。(岩佐論文では、宝冠や顔の微妙な肉付けから、隋、初唐の影響を受けた法隆寺再建期(670年〜)の様式に近いと述べられているのであるが。)

「旧」でなく「朔」と読むべきか、「中宮天皇」を誰と考えるか、さらに、天皇号はいつから使われたのかという大きな問題も含めて、この像の銘文をめぐる問題は、まだこれからも議論されていくことになろう。

 

 

その他

野中寺の方丈は大和郡山の大名柳沢家の別邸を移したもの。ここで弥勒菩薩像を拝観したあと、順路に従ってゆくと、地蔵堂で鎌倉時代の地蔵菩薩立像の拝観ができる。

 

 

さらに知りたい時は…

「日本における菩薩半跏像の図像と尊名をめぐる考察」(『 美術フォーラム21』44)、礪波恵昭、2021年

「古代寺院の仏像」(『古代寺院』、岩波書店)、藤岡穣、2019年

「野中寺弥勒菩薩像について」(『Museum』649)、藤岡穣、2014年4月

「野中寺弥勒半跏像発見報道について」(『奈良美術研究』15)、竹田慈子、2014年3月

「古代の造寺と社会」(『日本史研究』595)、竹内亮、2012年3月

『大飛鳥展』(展覧会図録)、奈良県立万葉文化館、2011年

「金銅仏の裙の縦状連珠文様とその源流」(『密教美術と歴史文化』、法蔵館、2011年)、村田靖子

「野中寺菩薩半跏像をめぐって」(『方法としての仏教文化史』、中野玄三編、勉誠出版)、礪波恵昭、2010年

「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」(『仏教芸術』313)、松田真平、2010年11月

『日本彫刻史の視座 』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず」(『仏教芸術』264)、麻木脩平、2002年9月  

『日韓古代彫刻史論』、大西修也、中国書店、2002年                                                    

「野中寺弥勒菩薩像銘文再説」(『仏教芸術』258)、東野治之、2001年9月

「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘文」(『仏教芸術』256)、麻木脩平、2001年5月

「野中寺弥勒像台座銘の再検討」(『国語と国文学』77巻11号)、東野治之、2000年11月

「野中寺弥勒菩薩像銘の『中宮天皇』」(『美術史論叢 造形と文化』、清水眞澄編、雄山閣出版) 、篠川賢、2000年              

「野中寺弥勒菩薩造像銘再考」(『藝林』48巻3号)、堀井純二、1999年8月

「野中寺弥勒像銘文考−中宮天皇について」(『博物館学年報』30)、吉野美穂子、1998年12月

『羽曳野市史1(本文編1)』、羽曳野市、1997年

「法隆寺献納宝物一五六号と野中寺弥勒像」(『論争 奈良美術』、大橋一章編、平凡社)、小泉惠英、1994年

『羽曳野市史3(史料編1)』、羽曳野市、1994年

『羽曳野市史7(史料編6)』、羽曳野市、1994年

「野中寺弥勒菩薩半跏像について」(『東京国立博物館紀要』27)、岩佐光晴、1992年

『正倉院文書と木簡の研究』、東野治之、塙書房、1977年

『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』、奈良国立文化財研究所編、飛鳥資料館発行、1976年

 

 

仏像探訪記/大阪府