金剛輪寺の仏像

  本堂安置の鎌倉仏

 

住所

愛荘町松尾寺874

 

 

訪問日 

2014年5月3日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

金剛輪寺ホームページ・境内

 

 

 

湖東三山への道

滋賀県と三重県を分ける鈴鹿山脈の西側、山麓のふところに抱かれるようにして、天台宗の古刹、西明寺、金剛輪寺、百済(ひゃくさい)寺が北から南へと並んでいる。湖東三山と総称され、それぞれに趣あるお寺である。

 

ただし、これらのお寺を訪れるのには自家用車でないとやや不便である。

比較的近い近江鉄道の多賀大社駅、尼子駅、愛知川駅にはレンタサイクルがある。金剛輪寺と西明寺へは、予約型乗り合いタクシー(愛のりタクシー)も運行されている。

 

愛荘町・愛乗りタクシー

 

このほか、秋の紅葉の時期には三山をまわるシャトルバスが運行される(湖国バスが運行)。ただし、このシーズンは相当な人出だという。

筆者は秘仏開帳の行事にあわせて訪問したので、シャトルバス運行があり(期間中の土日祝日)、これを使って三山をまわった。

 

シャトルバスはJR河瀬駅が起点。お寺に1時間程度滞在すると次のバスに乗れるような感じでダイヤは組まれているが、すべてが河瀬駅と百済寺(終点)間のバスでなく、区間運行の便も多いので、事前に時刻表を入手して計画をたてておくとよい。

三山とも山岳寺院というと大げさだが、それぞれ入口から本堂まで数百メートルの上り坂があり、その間の往復時間とじっくり仏像を見る時間と考えると、1時間ではきびしいので、計画立てをする際には注意が必要と思う。

 

なお、三山はそれぞれ数キロずつ離れている、その間にはハイキングロードもあるらしい。

 

 

拝観料

500円

 

 

金剛輪寺について

湖東三山のまんなかのお寺である金剛輪寺は、鎌倉時代のすばらしい仏とお会いできるお寺である。

創建は奈良時代中期、平安時代前期に円仁によって天台密教となったとお寺では伝えている。実際に奈良時代後期の奥書を持つ経典が伝えられていて、奈良時代の後、末期頃までにお寺の基盤がつくられたと考えられる。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて寺運が興隆し、その頃につくられた仏像が多く残る。また、本堂(大悲閣)は鎌倉時代後期のたいへん美しい建物で、近江国の守護・佐々木氏によって再建されたのだそうだ。

 

 

拝観の環境

シャトルバスのバス停は寺の門のすぐ前にあり、入るとすぐ拝観入口。そこから本堂までそれほど急坂でないが、数百メートルの上りとなる。上りきったところに室町時代の二天門があり、くぐるとすぐ前が本堂である。

 

本堂は内外陣が仕切られる形式のお堂だが、内陣まで入れていただけたので、よく拝観できた。

中央に秘仏本尊の厨子があり、脇に不動、毘沙門の2像が立つ。さらに左右に阿弥陀如来の坐像、そしてその前に四天王像が左右に2躰ずつ並ぶ。須弥壇上はこれら多くの仏像でやや窮屈そうである。不動明王像、毘沙門天像はかつて寺内の子院(廃絶)に安置されていたと知られるが、2躰の阿弥陀像もおそらくいずれかの子院の本尊であったのであろう。

阿弥陀如来像は横からも拝観できるが、厨子の左右の不動、毘沙門天像については、安置の位置が後ろぎみであるので、やや見えずらい。

 

持国天像
持国天像

 

仏像の印象(本堂須弥壇上の仏像)

これら壇上の仏像は銘文によって造像年代が判明している像が多く、貴重である。

不動、毘沙門天像は1211年、四天王のうちの持国天、多聞天像が1212年、そして向かって右側に安置される阿弥陀如来坐像が1226年の作と判明している。いずれも鎌倉前期彫刻の基準的作例ということになるが、比較的前代の流れを汲んだ作品で、玉眼は用いられていない。とはいっても時代の風を受けて、鎌倉彫刻らしい生気のある造形となっている。

 

前方に左右2躰ずつ安置される四天王像は、像高150センチ内外の大きさ。ヒノキと思われる樹種を用いた割矧(わりは)ぎ造。しかし、持国天・多聞天と他の二天ではあきらかに作風が異なる。増長天と広目天はもっさりとした印象で、これはこれで味わいがあるが、あとになって補われた像と思われる。

持国天像、多聞天像には足のほぞに銘文があり、四天王のうちの二天として頼円を願主に鎌倉前期の1212年につくられたと記されている。仏師名は書かれない。

持国天像、多聞天像とも顔は小さめ、左手を上にあげて戟を持ち、腰を右側にひねって立つ。質実な鎧を着け、邪鬼に乗る。

持国天像は目鼻を中央に集め、そのまわりにごつごつと筋肉を隆起させて、やや右を向く。口は閉ざし、右手は腰にあてる(ただし右手や邪鬼は後補。多聞天も同じ)。多聞天は面長な印象。兜をつけ、眉をつりあげて、小さめながら険しい目つき。口は閉ざす。やや腰高だが、正面を向いた姿は安定感がある。

どちらもそれほど大きな動きをつけないが、気力が充実して、大きく見える像と思う。

 

厨子の脇に立つ不動、毘沙門の2像は、像高約160~170センチと四天王像より若干大きめ。ヒノキの割矧ぎ造。足のほぞに銘があり、鎌倉前期の1211年、良真という僧を願主とし、不動像は講師五郎、毘沙門天像は源守永の作と知られる。

不動明王像は巻き毛の髪をたっぷりとさせ、目鼻立ちは顔の中央に集める。動きは少ないが肘を張ってみなぎる力をあらわしている。裙を短めにして、下肢を見せる。

一方の毘沙門天像はかなり強く腰をひねり、右手を斜め上にあげて戟をとる。思い切って動きを出している。

 

2躰の阿弥陀如来坐像はともに像高約140センチ。半丈六像である。ともに割矧ぎ造。向かって右側に安置される像は来迎印を、向かって左の像は定印を結んでいる。来迎印の像には銘文があり、1226年に近江講師の経円がつくったと知られるが、定印の像は銘を持たない。

この両像は、一見同じような雰囲気に見えるが、よく見るとかなり異なっている。定印の像はあくまで穏やかでやさしく、衣の襞(ひだ)も省略気味であり、平安時代後、末期の様式によってつくられている。

一方、来迎印の像は顔つきや上半身に生気がみなぎる。髪際はわずかにカーブし、左足は衣にくるまれる。この左手から流れて前にかかる衣の端の部分の意匠や左肩の衣の線など、なかなかおしゃれにつくられていて、面白い。体の厚みも比較的しっかりととっている。

 

 

その他の仏像

本堂の後陣には、十一面観音像や慈恵大師(元三大師)像が安置され、拝観できる。

十一面観音像は像高は約170センチの立像で、カヤの一木造。丸顔、ゆらりとした立ち姿が印象的な像である。右肩から下がる条帛が膝のあたりを横切る。裙の衣文は省略気味に刻まれる。平安時代後期の作。

 

慈恵大師像は像高約80センチの坐像で、ヒノキの寄木造、玉眼。銘文があり、1288年、妙蓮を願主としてつくられたことが知られる。

実はこのお寺にはもう1躰、同じ願主によってつくられた慈恵大師像(1286年の作)が伝来しているが、こちらは東京国立博物館に寄託されている。

これらの銘文によれば、妙蓮は66躰の慈恵大師像の造立をこころざしたという。これより少し前、栄盛という僧がはじめ33躰、のちには66躰、99躰と願を広げて慈恵大師像の造立を進めた(そのうち3躰が岡崎市の真福寺などに現存)ことが知られるなど、この時期延暦寺中興の祖である慈恵大師良源への信仰が高まりをみせていた。ただし、妙蓮による造像は現在のところこの金剛輪寺に伝わる2躰しか知られておらず、実際に多数の造像が行われたかどうかは不詳である。

 

このほか本堂内には古様をあらわす大黒天像が厨子中に安置される。毎年秋のシーズンに開帳されているのだという。

なお、子院の常照庵にも鎌倉時代の阿弥陀如来坐像や不動三尊像が所蔵されているというが、お聞きしたところ非公開ということだった。

 

 

西明寺(甲良町)と百済寺(東近江市)の仏像について

湖東三山中で一番北にあるお寺が西明寺である。

金剛輪寺、百済寺と同様、シャトルバスの停留所から山門まではすぐだが、本堂まで数百メートルのゆるい上り坂を行く。

本堂は金剛輪寺と同じく鎌倉時代の美しいお堂である。本堂右手には同じ鎌倉時代の三重塔が建つ(美しい彩色の残る塔初重内は、春秋の時期に別料金で公開。ただし雨天時は中止)。

 

本堂内は外陣からの拝観となる。また金剛輪寺同様後陣にまつられている仏像も拝観できるので、そこに進む途中で内陣の仏像を横から拝観できる。

内陣の十二神将像は鎌倉期の作で、小像ながらなかなか充実した作品である。さまざまな鎧の付け方をして、ポーズも面白く、迫力ある像もあればややおかしみを誘う体勢の像もある。頭には標識の十二支をつける。

ただし、拝観位置からやや距離がある。

 

後陣には清涼寺式釈迦像(鎌倉時代後期)や不動三尊像(平安時代後期)が安置されている。

不動三尊は秘仏本尊の真裏に安置されている。中尊の不動明王像が坐像、カヤの一木造、脇侍の2童子が立像でヒノキの一木造。ともに像高90センチ弱。

不動明王像は安定感がよく、厳しい顔つきながら親しみを持てる表情、また童子像はかわいらしい表情、力を抜いた立ち姿がとても魅力的である。

 

西明寺と百済寺には、室町期の印派仏師の手になる仏像が伝来している。

西明寺本堂前の二天門に安置されている持国天、増長天像は、1429年に院尋らによってつくられたことが知られる。像高は2メートルもあり、いかつい顔、たくましい胸、絞った胴、装飾的な袖口など、部分ごとの誇張が大きい。

百済寺の本堂に安置される比較的小さな仏像、聖観音坐像と如意輪観音坐像(2臂で片足を踏み下げている)は1498年と99年に院祐によってつくられた像である。

 

 

三山の秘仏

筆者がうかがった際の三山の秘仏本尊のご開帳は、阪神高速道路の湖東三山スマートICの開通に伴う交通安全祈願としての行事だったそうで、2014年4月4日から6月1日まで行われた。これは2006年秋の一斉開帳(天台宗開宗1200年を記念するもの)以来のことという。

 

西明寺の薬師像はまるまると円満な顔つきの中に厳しさがかいま見られ、金剛輪寺の観音像はノミ跡を残したいかにも霊仏という像。

しかしことに印象深かったのは百済寺の秘仏本尊、十一面観音像であった。

記録にあるだけでも鎌倉時代に1度、室町時代に4度火災にあい、現在の本堂は江戸初期の建築。しかし本尊は火災の度に取り出されて、今に伝わった像である。

小さな顔、目はつりあがるが決してきつい感じでない。上半身は大きく、堂々としている。衣も古拙感があるが、たたんだ襞の様子など、意外に自在な動きを感じる。腰はひねらず、直立する。

像高は2メートル半もの立像で、針葉樹の一木造なのだが、いかにも平安時代の木彫という雰囲気でなく、奈良時代あるいはさらにその以前の作である可能性があるとされる。

 

 

さらに知りたい時は…

「仏師と仏像を訪ねて7 経円」(『本郷』140)、武笠朗、2019年3月

「百済寺十一面觀音像について」(『国華』1407)、伊東史朗、2013年1月

「金剛輪寺・十一面観音立像について」(『滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要』23)、榊拓敏、2007年3月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』4、中央公論美術出版、2006年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』2、中央公論美術出版、2004年

『湖東三山』、世界文化社、2000年

『古寺巡礼 近江6 湖東三山』、淡交社、1980年

『近江湖東三山』、湖東三山会、1978年

『近江路の彫像』、宇野茂樹、 雄山閣出版,、1974年

 

 

仏像探訪記/滋賀県