中尊寺金色堂の諸仏

   3つの須弥壇にならぶ仏像群

金色堂覆堂
金色堂覆堂

 

住所

平泉町平泉衣関202

 

 

訪問日 

2013年8月30日、 2021年10月3日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

関山中尊寺・金色堂

 

 

 

拝観までの道

平泉観光の中心のお寺といえば中尊寺と毛越寺だが、この2か寺は立地が大きく異なる。

毛越寺は平泉の駅から近く、平坦な地にゆったりと境内を設け、美しい浄土式庭園が広がる。一方、中尊寺は丘陵上の寺である。

お寺の入口からの参道は月見坂といい、急ではないものの上りが長く続き、金色堂や讃衡蔵の拝観入口までは15分くらいかかる。道々、さまざまなお堂や子院が左右に点在する。平地に開けた毛越寺とは対照的な風景である。

 

平泉駅からお寺の入口まで北北西に徒歩20分くらい。また、循環バスが30分に1本あり(土日祝日、ただし冬季以外)、駅前にはレンタサイクルもある。

 

平泉町循環バス「るんるん』

 

 

 

拝観料

金色堂と山内の文化財が集められている讃衡蔵(さんこうぞう)共通で、一般800円。

 

 

お寺のいわれなど

寺伝では平安時代前期、慈覚大師円仁の創建というが、実際にこの寺を興したのは奥州藤原氏初代の清衡(きよひら)である。

彼がこの地域に地歩を築くまでには、前九年合戦、後三年合戦と長く厳しい、親族同士が相争う戦いをくぐり抜けなければならなかった。

多くの犠牲の末に東北の覇者となった清衡は、それゆえに仏教によって悲惨な過去からの転換をはかった。

坂東との境である白河の関から青森の海岸である外浜(そとのはま、そとがはま)に至る道に1町ごとに塔婆を建て、金色阿弥陀仏の画像をまつったと記録にあるが、これはその広大な地の支配の宣言であるとともに、仏の加護によって平和な地にしたいという願いのあらわれであったのだろう。そして、その東北を縦貫する街道のちょうど真ん中にある関山に一基の塔を建てたが、それが中尊寺の起こりであるという。つまり、中尊寺の「中尊」とは、東北全体の神仏世界の中心といった意味で名付けられたとも考えられる。

 

塔に続いて釈迦堂、両界堂、二階大堂、金色堂の順に建物がつくられたが、釈迦堂には金色釈迦如来が100躰、両界堂には木彫であらわした金剛、胎蔵諸像を、二階大堂には3丈の阿弥陀仏を中尊に丈六阿弥陀像を9躰脇侍として安置したという。これらは源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされたその直後に中尊寺の僧が頼朝に差し出した平泉の諸寺院の現況報告に書かれている内容で、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に載せられて現代に伝えられているものである。

 

鎌倉時代以後は衰退を余儀なくされ、南北朝時代の大火災の打撃もあり、奥州藤原氏時代の建物として現代に伝わるものは金色堂だけとなってしまった(次に古い建物は経蔵で、14世紀の再建)。

 

 

金色堂の各壇と仏像について1

金色堂はその棟札によって、1124年の上棟と判明している。奥州藤原氏初代の清衡の晩年につくられたものである。

外、中ともに皆金色をした小さなお堂なのだが、中には3つもの須弥壇がつくられている。それぞれの壇の上には、阿弥陀三尊、六地蔵、二天王のあわせて11躰の仏像が安置される(中尊の阿弥陀如来像のみ坐像であとは立像)。中央壇はやや広いが、他の2壇は中央壇よりも狭く、安置仏は少々窮屈そうである。

壇の下には(もちろん見ることはできないが)、奥州藤原氏3代の遺体を収めた金棺が安置されているという。

 

このことから、金色堂は阿弥陀堂であり、葬堂であるという性質のお堂であることがわかる。阿弥陀如来をまつっているのだから、死後極楽浄土への往生を望む信仰によることは当然だが、同時に、永久不変な金ですべてを包むことで、遠い未来の弥勒下生の時まで遺体を保管したいという願いもあったものと考えられる。

 

以上のように堂内に3つの須弥壇をもつ金色堂だが、おそらくはじめは中央の壇だけがつくられていた、すなわち奥州藤原氏初代・清衡のためのお堂であったのだと思われる。

さらに2つの壇を加えて現在のような姿にした理由については、わかっていない。推測だが、2代めの基衡(もとひら)が思いがけず早死にをしてしまい、3代めの秀衡があわてて基衡壇を加えるとともに、自分のための壇をも用意したといった事情であったのかもしれない。

金色堂は東面して建っているので、中央の壇に向かって右奥の壇は西北壇、左奥の壇を西南壇と呼んでいる(安置仏の側から見て、左壇、右壇と呼ぶこともある)。

 

 

金色堂の各壇と仏像について2

3つの壇上の仏像には、入れ替わりがある。

奥州藤原氏という最大の外護者を失って、その後のおよそ800年の星霜を経るなかで、困難な時期や混乱した時代もあったのであろう。一部の仏像が失われたり、入れ替わって本来の壇でない場所にまつられている像もあるようなのだ。

さらに、奥の壇のどちらが基衡壇なのか、また秀衡壇なのか、さらに壇の下におさめられた棺や遺体が入れ替わっている可能性などの問題もこれにからんでくる。

そして、上記のこととも関連するが、金色堂そのものの偉大な価値が早くから確定していたのに対して、壇上の仏像をどう考えるのかについては、さまざまに議論がなされてきた。

金色堂そのものが国宝指定されたのが1951年、一方壇上諸仏の文化財指定はこれよりずっと遅れ、1956年に重要文化財指定、2004年になって国宝指定された。この時間差は、壇上諸仏をどう考え、位置づけるべきなのか、なかなか困難な課題であったことを示している。

しかし近年、これらの難問について、科学的な調査も進みめられた結果、かなり課題が整理されてきている。

 

なお、西北壇と西南壇についてだが、寺伝によれば西北壇が基衡のための壇、西南壇が秀衡のための壇とされてきた。これに対し、寺伝は間違っているのではないかという説が一時有力だった(寺伝錯誤説)が、今日では寺伝通りの順に壇はつくられたとの説が強くなっている。

 

 

拝観の環境

金色堂はすっぽりとガラスケースの中に入って保護されているため、拝観はガラス越しとなる。

さすがに有名なお堂だけに、参拝客がひきもきらず訪れるので、じっくりと拝観するのはなかなか難しい。しかし、参拝客向けに録音された説明が一定間隔で流されており、説明の終わりごとに人が自然に移動していくので、その合間を狙って前に出て見ることができる。

照明もあるが、金色堂内の諸仏はお堂のスケールにあわせて皆小ぶりである(像高はそれぞれ60センチくらい)ため、特に拝観位置から遠い西北壇、西南壇の諸像は細部までよく見るのはなかなか難しい。中央壇の像は比較的見えやすいが、六地蔵像は最前列の像以外は重なり合って見えにくい。

奥の壇であっても、最前列の二天像は比較的見えやすい。他の像に比べて二天像は壇ごとに作風の違いが顕著なので、分かりやすいし、見ていて楽しい。

 

 

仏像の印象

比較的見えやすい中央壇の仏像を中心に、その印象を書いておきたい。

まず、阿弥陀三尊像だが、中尊、脇侍像とも針葉樹(ヒノキまたはヒバ)の寄木造で、肉厚に材を残りして内ぐりを施している。ヒノキであるならば、寒冷な東北地方では自生しないので、中央でつくられ、運ばれてきたと考えるべきであろうか。

中尊の阿弥陀如来像は落ち着いた構えの像で、丸顔がいかにも円満であるが、目鼻だちは意外に厳しいようにも感じる。脇侍の2菩薩は若干腰をひねるが、落ち着いた立ち姿で、やさしげな丸顔にそれほど細身としない体躯がいかにも穏やかな菩薩像である。まげは低めに結っている。

この3尊は当初からの中央壇の仏像と考えられ、清衡が没した1128年のころの中央の様式をよくあらわしている像といえよう。

 

しかし、二天像と六地蔵像は広葉樹でつくられていて、阿弥陀三尊像と一具でない。おそらく西北壇、すなわち2代めの基衡の壇の像と入れ替わっているのだと思われる。西北壇の二天像は針葉樹材でつくられていて、片腕を上げ、腰をひねるが、全体的な雰囲気はおちついており、中央壇の阿弥陀三尊像と一具であると考えるととてもおさまりがよい。

一方中央壇の二天像は、頭部を小さめにし、胴を極端なまでに絞り、腰も非常に大きくひねって、袖も大変大きくひるがえり、極めて激しい動勢を示す。面白い造形である。

この像が本来西北壇の像だったとすると、基衡の没年(1157年ごろと考えられている)のころの像ということになる。その年代ごろの像としては、まことに新しい感覚でつくられているということができそうである。中央から気鋭の仏師を招き、つくらせたのであろうか(基衡時代の平泉文化の「先進性」をどう評価するか、また当時の京都の文化との整合性をどのように考えるかという課題がそこにはある)。

なお、この二天像は、福島県いわき市の願成寺・白水阿弥陀堂(奥州藤原氏ゆかりの造像と考えられている)の二天像と似るとされる。

 

 

その他1(六地蔵像について)

地蔵菩薩像は各壇6躰ずつ安置されている。阿弥陀三尊像の左右に3躰ずつ、行儀よく縦隊をつくっている。どれもすべて左手には宝珠を持ち、右手は与願印(何も持たず、手をさげ、てのひらをこちらに向ける)である。錫杖を持たない古式の姿である。

6体の地蔵は六道を輪廻する衆生を漏らさず救済することを意味するので、万一往生がかなわなかった場合を想定しての造像であったのだろうか。

当時の貴族の日記などには六地蔵像の造立の記事が見えるが、実際には遺例は極めて少なく、ここ中尊寺のほかに高知県の定福寺で見られるくらいであり、大変貴重な例である。また、阿弥陀三尊像と六地蔵と二天をセットとするこの壇の構成は極めてユニークで、独創的なものということができよう。

各像は、写真で細かく観察するとそれぞれ個性があるが、一見したところでは、ほぼ同じような印象である。しかし、西北壇の6躰以外については共通して腹のところで紐の結び目を見せているが、西北壇の像はこれがない。一般に腹のところに紐の結び目を見せない像の方が古式であるとされ、かつこの西北壇の六地蔵像は針葉樹でつくられていることから、おそらくこちらの像が本来中央壇に置かれていたと考えられている。

 

 

その他2(西南壇の阿弥陀像と二天像について)

西南壇の阿弥陀三尊像の中尊像は、他の壇の阿弥陀如来像と手の組み方が異なっている。中央壇と西北壇の中尊阿弥陀如来像は腹の前で手を組む定印なのだが、西南壇の中尊のみ来迎印を結んでいる。また、この像は他の2像よりも若干小さめである(中央壇と西北壇の阿弥陀像は像高60センチ強、一方西南壇の中尊は50センチ弱。台座を高くして脇侍との釣り合いをとっている)。このことから、西南壇の本来の中尊はいずれかの時代に失われ、別の像がどこからか移され補われたものと思われる。

なお、脇侍の2菩薩は、西北壇との間で入れ替わっている可能性がある。

 

西南壇の二天像のうちの向かって左側の像(増長天像)も失われている(現在は新補された像が置かれている)。

右側の持国天像だが、中央壇の二天像と同じく激しい動きをあらわすものの、像の体型のメリハリや動きのキレという点では、中央壇の像にはるかに及ばない。怒りの表現というよりはどことなくゆったりとダンスを踊っているようにも見え、諧謔味が感じられて面白い像であるとは思う。

西南壇は奥州藤原氏の3代め、源義経をかくまったことで知られる秀衡のための壇である。その没年は1187年なので、平安時代の最末期ということになる。このころにはやや肥満した体型の仏像が見られるといい、その時代の造形の特色がよくあらわれている像であるとされる。

 

 

さらに知りたい時は…

『建立900年特別展 中尊寺金色堂』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2024年

『中尊寺と平泉をめぐる』、菅野成寛 編、小学館、2018年

『図説 平泉』、大矢邦宣、河出書房新社、2013年

『みちのくの仏像』(『別冊太陽』)、平凡社、2012年

『中尊寺』、中尊寺発行、2010年

『平泉 みちのくの浄土』(展覧会図録)、NHK仙台放送局ほか、2008年

「中尊寺彫像研究の現在」(『仏教芸術』277)、浅井和春、2004年11月

「中尊寺金色堂壇上諸仏研究の現状と問題点」(『仏教芸術』277)、武笠朗、2004年11月

『中尊寺・毛越寺』(『古寺巡礼』6)、田中昭三、JTBキャンブックス、2004年

「中尊寺金色堂壇上諸仏の調査について」(『中尊寺仏教文化研究所論集』2)、長岡龍作、2004年3月

『月刊 文化財』489、2004年6月

『国宝 中尊寺展』(展覧会図録)、佐川美術館、2004年

『中尊寺を中心とする奥州藤原文化圏の宗教彫像に関する調査研究』、有賀祥隆ほか、2003年

『いわて未来への遺産 古代・中世を歩く』、岩手日報社出版部、2001年

『図説 みちのく古仏紀行』、大矢邦宣、河出書房新社、1999年

『中尊寺黄金秘宝展』(展覧会図録)、中尊寺黄金秘宝展実行委員会、1993年

『中尊寺と毛越寺』(『日本の古寺美術』19)、須藤弘敏、岩佐光晴、保育社、1993年

『金色の棺』、内海隆一郎、ちくま文庫、1993年

『中尊寺』(『古寺巡礼東国』1)、淡交社、1982年

 

 

仏像探訪記/岩手県