大福寺の仏像

平安時代から鎌倉時代にかけての像が多く伝わる

住所
中央市大鳥居1621


訪問日 
2025年10月11日


この仏像の姿は(外部リンク)
中央市・木造薬師如来座像
中央市・木造聖観音及び諸尊像

 


拝観までの道
大福寺は中央市東南部の大鳥居という地区にあり、隣接してシルクふれんどりぃという複合観光施設がある。以前はここまで中央市のコミュニティバスが来ていたが、2025年11月をもって終了(中央市民のみを対象とするオンデマンドバスの実証実験に移行)。近くに他のバス停はなく、北へ3キロほどのところに山梨交通バスの「豊積橋」バス停があるが便数が少ない。
筆者は、行きはコミュニティバス、帰りは「豊積橋」まで歩いたのだが、バス廃止後はJR身延線東花輪駅前からタクシーでということになると思われる。

拝観は事前連絡必要。なお、電話でお聞きした時には、平日は難しいとおっしゃっていた。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
真言宗寺院。行基草創と伝える。本寺には平安時代の仏像が多数伝来しており、古代にさかのぼる古刹と思われるが、そうした古い時代のことはほとんどわかっていない。比叡山の横川中堂の観音像にならったと思われる像が伝わることから、かつては天台宗寺院であった可能性も考えられる(山梨県ははかつてあった天台宗寺院の多くが廃絶したり、転宗したりしており、その痕跡がたどりにくくなっている地域である)。
このあたりは浅利郷といい、鎌倉時代前期には浅利与一義遠(義成)が出て、大福寺の伽藍整備、寺領寄進などを行ったとの伝承が残る。
浅利与一は甲斐源氏の一族で強弓で知られ、源平合戦や奥州合戦で活躍したという。大福寺の東に浅利与一の墓と伝えられる鎌倉期の石塔が同時期の五輪塔群とともに残り、その前には与一を記念した弓道場も建っている。

本寺境内の薬師堂と観音堂には平安、鎌倉時代の仏像や破損仏が安置されていたが、観音堂の秘仏本尊以外は新造された宝物保管庫(収蔵庫)に移されている。
多くの古仏を伝えること、特に聖観音像と薬師如来像はとても大きな像であり、かつての隆盛ぶりが偲ばれる。


拝観の環境
庫内でよく拝観させていただける。


仏像の印象
収蔵庫の正面には薬師如来像が安置されている。像高280センチの坐像。寄木造。平安時代後期の作。
近くで拝観させていただくと、とにかくその大きさに圧倒される。頭部は特に大きくつくり、肉髻も高く大きいが、顔立ちは穏やかな丸顔である。眉は高々とあげ、目鼻は中央に寄り、口は小さくつくる。上半身は高く、姿勢よく座る。衣のひだは浅い。
全体に傷みが進んで像容を損ねていたが、2019年から2021年にかけて修復が行われ、面目を一新した。

薬師如来像に向かって右側には、もと観音堂に安置されていた不動明王像2体、聖観音像、多聞天像が並んでいる。平安時代後期から鎌倉時代にかけての仏像。
聖観音像は像高約170センチの立像。観音堂本尊の秘仏聖観音像の前立ち仏である。寄木造。丸顔、低いまげ、細い体、浅い衣の線は、平安時代後期の優美な菩薩像の姿といえる。手先は後補だが、肩から腕は本来のもので、もとから片手で蓮華の茎を持ち、もう片方の手を近づける姿としてつくられた像と考えられ、この姿は比叡山の横川中堂の観音像と共通する。
多聞天像及び不動明王像(2体)は像高約1メートルの立像。一木造。
多聞天像は手に宝塔と戟を持ち、腰をひねる、片足を曲げるなどの変化をつけるが、体勢にややぎこちなさがある。不動明王像の1体は棒を飲んだように直立する。つんつんとはねるようにしている頭髪が目を引く。
もう1体は腰をひねり、柔らかな動きをしているように思うが、傷みが進んで像容は分かりづらい。

向かって左側の壁面には破損仏が並んでいる。全部で十数体あり、まったくの断片まで含めると30以上という数になるそうだ。菩薩像、神将形、神像と思われるものなどさまざまである。体部の右半身のみが残る像は寄木造だが、他は一木造(内ぐりなし)。
神将形の像は雨乞いの儀式の折には境内の池に漬けられたという。また神像と思われる像は、かつてこのお寺には鎮守として七社権現社があったといい、そこにまつられていた像であったのかもしれない。


その他
観音堂の秘仏本尊の聖観音立像は、足が切りつめられていて、なお3メートル半もの像高という巨像である。もとは5メートル以上の丈六立像であったと思われる。
2026年に開帳が予定されているというが、日程など詳細は未定とのこと。


さらに知りたい時は…
「大福寺の仏像と歴史」(『甲斐』146)、鈴木麻里子、2018年10月

『甲斐源氏 列島を駆ける武士団』(展覧会図録)、山梨県立博物館、 2010年
 『山梨県史 文化財編』、山梨県、1999年


仏像探訪記/山梨県