周防国分寺金堂の薬師三尊像

  本当にお薬を持っている薬師様

住所

防府市国分寺町2-67

 

 

訪問日

2009年3月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

周防国分寺ホームページ・文化財

 

 

 

拝観までの道

山陽本線の防府駅天神口(北口)から北東方向へ徒歩25分くらい。

バスは、防長バス阿弥陀寺行きで「国分寺」下車。バスの本数は日中1時間に1〜2本だが、土休日は少なくなる。 

また、駅の観光案内所には、レンタサイクルもある。

 

防長交通・防長観光バス・路線バス

 

金堂拝観は月曜日お休み。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺のいわれなど

国分寺はいうまでもなく奈良時代、聖武天皇が各国に建立することを命じて造られた寺院である。

現在も国分寺を称する寺院は各地にあるものの、総国分寺たる東大寺は別として、古代の法灯をそのままに受け継いでいるとは言いがたい。また、当初の国分寺の仏像も残念ながら伝わらない。 

現在の国分寺の多くは、後世その跡地の近くに再興されたというケースが多い。

 

そうした中、元の国分寺金堂の位置に現在も金堂(本堂)がたつ国分寺が3か寺ある。若狭国分寺飛騨国分寺とこの周防国分寺である。特に周防国分寺の金堂は江戸時代の再建ながら、いにしえの国分寺の金堂を彷彿とさせる7間×4間の大規模なものである。

また、平安時代前期ないし中期の作である日光・月光菩薩像、四天王像が伝わっているのも貴重である。

 

 

拝観の環境

堂内は明るく、また近くに寄ってよく拝観できる。須弥壇は大きく立派で、本尊の薬師三尊像は高い位置に安置されている。

 

 

仏像の印象

中尊の薬師如来像は像高2メートル弱の坐像。

室町時代前期の1417年、国分寺の伽藍は全焼、そののち中国地方の大名大内氏によって復興がはかられ、1421年に金堂が再建されれた。中尊の薬師如来像はこの時の再興像と考えられている。室町時代の仏像彫刻は前代にもまして多くつくられたが、比較的小像が多く、こうした2メートルの坐像は例が少ない。光背、台座も揃って伝わっているのも貴重である。

ヒノキの寄木造。玉眼。顔は大きく、首は短い。表情はのっぺりとした感じで、体は四角ばり、衣の襞(ひだ)はうねりを多用してやや自然さに欠ける。

寄木造といっても定朝が完成させた時代のものと比べると寄せ方が複雑になっている。比較的小さな木材を箱型に寄せて彫り出す方法で、そうした作り方からの影響もあって彫り上がった形も四角ばった印象のものになってしまうようだ。また構造の弱さを克服するために内部には補強の工夫もしている。

こうした全体的な像の印象及び構造上の特色から、この像をつくったのは院派の流れを汲んだ仏師であるとする意見がある。印派は慶派にくらべて保守的な彫刻を手がけていたが、室町時代になると幕府との関係を深め、一種独特の雰囲気の仏像を多く造像した。

 

脇侍の日光・月光菩薩は、像高約180センチの立像。ヒノキの一木造で内ぐりもない古様なつくりである。すらりとしていてほぼ直立する。顔も穏やかな像であるが、衣の襞は生硬な感じで、腹前に垂れる条帛の端などやや野暮ったい。さらに後補の漆箔や冠が印象を鈍くしているところもある。平安時代前期から中期の作と思われる。

 

 

仏手の発見

1997年から2004年にかけて金堂の解体修理が行われ、その際に中尊の薬師如来像から2つの発見があった。

そのひとつは、像内から仏手が発見されたことである。

『防州国分寺修復記録』という後代の史料の中に、1417年の火災の際救出された旧本尊の手を再興本尊の像内に籠めたとする記述があるが、それが本当であったことが分かったのである。

現本尊の手よりも一回り大きな左の手で、1699年の年記の書かれた箱に入っていた。これによって、元の本尊は今の像より大きな丈六像であったことがわかった(現在の中尊と脇侍ではやや脇侍が大きいという印象だが、中尊が丈六であれば釣り合いがよいように思われる)。

 

ところで、この手は左手である。左手には通常の薬師如来像であれば薬壷を持つが、この手には壷を持っていた形跡がなかった。実は今の本尊も、壷は持っているのがフィットしてはいない。あるいは現本尊も元は壷を持っていなかったのかもしれない。古代には壷を持たない薬師如来像も造られていたので、その古式の像の形を再興のたびに踏襲してきたのかもしれない。

しかし、本来国分寺の本尊は釈迦像だったはずで、周防国分寺においては釈迦を本尊とする形がかなりあとまで引き継がれたという可能性もあり、そうであるならば薬壷をもっていなくても不思議ではない。現在の国分寺は薬師仏を本尊とするところが多く、釈迦から薬師への変更がいつ、なぜ行われたのかという問題があるのだが、この仏手の発見は議論に一石を投じている。

なお、この仏手を年輪年代法で調査したところ、その材の伐採年は1056+α年とわかった。従って、現在の中尊の前身の像の制作年代は11世紀後半と考えられる。

 

 

薬の発見

もうひとつの発見は、現本尊のもつ薬壷の中に本当に薬が入っていたというものである。

病苦しみを除いてくれる仏である薬師如来は、その標識として薬壷をもつ像がほとんどであるが、本当に薬壷の中に薬を納めたという例はおそらくない。

ただし、この薬壷は当初のものでなく、江戸時代のものである。木製で高さは18センチ、最大径で13センチ。ふたの裏に1699年に修補したという年記が書かれていて、この年に内容物が入れられたと思われる。

中には小さな木製の五輪塔と布に入った薬類が納められていた。薬類を分析したところ、米、麦、大豆などの穀物、セキショウコン、朝鮮人参、丁字などの生薬、水晶、鉛ガラスなどの物質が混ざっていた。よく保存されていたのは、ふたがしっかりと閉じられて密閉されていたことのほか、丁字のもつ殺菌作用の効果ではないかとのこと。薬学史上においてもユニークな発見であったようだ。

ところで、同じ1699年、長州藩によって瀬戸内海の遠浅に土地を開く大きな工事が進行していた(三田尻開作)。この際国分寺僧が土手で祈祷し、法華経と穀物や薬種などを埋納したという記録がある。江戸時代において国分寺は藩の行う工事の成就祈願に役割を果たすなど、藩内の寺院の中でも重要な地位にあったことの証左であるが、この時の埋納物と薬壷の内容物は大いに関係がありそうだ。

 

 

その他

金堂の壇上にはこのほか、四天王像と十二神将像が安置されている。

四天王像は像高2メートルを越える大型の像である。ヒノキの一木造。動きはややぎこちないが、腰をひねって大きな動きを示そうしている。脇侍像と同じくらいの年代かと思われる。

十二神将像は像高50センチから60センチの小さな像で、江戸初期の作。短躯でユーモラスな群像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『室町時代の彫刻』(『日本の美術』494)、根立研介、至文堂、2007年7月

『十世紀の彫刻』(『日本の美術』479)、伊東史朗、至文堂、2006年4月

『周防国分寺展』(展覧会図録)、山口県立美術館、2004年

「周防国分寺金堂本尊薬師如来像をめぐって」(『山口県文化財』30)、岩井共二、山口県文化財愛護協会、1999年

「周防国分寺薬師如来像の薬壷の内蔵物調査」(『薬史学雑誌』33−1)、奥田潤ほか、1998年

『国宝・重要文化財 仏教美術 中国3』、奈良国立博物館編、小学館、1977年

 

 

仏像探訪記/山口県