松山ふるさと歴史館寄託の千手観音像
小松観音堂に伝来した3躰の像を展示

住所
大崎市田尻沼部字富岡183番地3
訪問日
2025年8月24日
この仏像の姿は(外部リンク)
宮城県公式ウェブサイト・指定文化財
大崎市田尻観音協会・木造千手観音坐像
展示室までの道
田尻総合支所は大崎市の市役所支所。JR東北本線の田尻駅から北へ徒歩約5分のところにある。
大崎市は宮城県北西部にあり、人口約12万人。古川市及び近隣の数か町の合併によって誕生した市で、消滅したかつての町に「総合支所」を設けて、住民サービスを行なっている。旧田尻町もその1つで、その町役場はユニークな円形の建物であったが、老朽化のために残念ながら取り壊され、変わって現在の支所の建物が2019年に完成した。木造平屋建てで、市内産の木材を積極的に用いてつくられたすっきりとした建物である。
支所の建物に入ると、左手に田尻歴史展示室と観覧室がある。歴史展示室には田尻地区の歩みを紹介するパネルとともに出土遺物の展示がなされ、古代の新田柵(にったのさく)跡の遺跡から出土した瓦などを見ることができる。その奥に仏像の観覧室(大崎市田尻総合支所重要文化財「木造千手観音坐像」観覧室)がある。
原則月曜日(年末年始も)は閉室だが、それ以外の日は日中自由に入室して仏像を見学、鑑賞できる。
観覧料
無料
仏像のいわれなど
観覧室安置の千手観音像は、2017年に国指定重要文化財となった(ともに安置されている不動明王像、毘沙門天像はその附指定)。これは大崎市内にある美術工芸品として初めてのことである。
本像はもと小松寺の本尊と伝える。
小松寺についてはあまりわかっていないが、大崎市田尻小松というところにあったといい、平安時代に編まれた『日本往生極楽記』に陸奥国新田郡小松寺の住僧玄海の往生のことが載せられているので、古代以来の古寺ということになる。さらに、小松寺のあった陸奥国新田郡は奈良時代前期に設けられた新田柵が所在した地区であり、古瓦なども出土している。近世の地誌によれば「東日本最初の寺」であり、勅願寺でもあったという。
その後、奥州藤原氏、室町時代の奥州探題大崎氏、江戸時代には仙台藩の庇護を受けたといい、衰退と復興を繰り返しながら歴史を刻んできたらしいが、近代初期の廃仏の時期についに廃寺となった。本尊と不動明王像、毘沙門天像はかろうじて残って、その地にあった薬師堂脇の観音堂に安置され、近在の「お薬師様文化財保存会」の方が守ってきたという。
2011年の東日本大震災で被災。像はお堂を離れて京都の美術院で修復を受け、その後の一時期、大崎市松山ふるさと歴史館に寄託、展示されていたこともある。重要文化財指定されるにあたって大崎市に管理が移り、2020年10月からは田尻総合支所内で展示されることとなった。
歴史の荒波を何度もくぐり抜けてきたお像であるが、ついに最終安置場所に至ったということになろう。感慨深いことである。
*大崎市・重要文化財「木造千手観音坐像」の一般公開
鑑賞の環境
歴史展示室の先の自動扉を入ると、自動で点灯する。
仏像3体はガラスで仕切られた向こう側に安置され、理想的な照明のもと、大変よく見ることができる。
千手観音像の印象
千手観音像は像高約1メートルの坐像。寄木造、彫眼。樹種はホオノキだそうだ。
かつては傷みがかなり進んでいたために洗練さを欠いた印象となっており、制作時期も室町時代頃かなどといわれたりしていた。修復によって面目を一新し、一見して平安時代後・末期の作、しかも大変に優れた作行きとわかる。京都・峰定寺の千手観音像に雰囲気が似て、都ぶりな造形から奥州藤原氏関係の造像ではないかと推測される。
丸顔だが、いかにも丸々としているというのではなく、ほおは自然なふくらみとしている。目は切れ長で、二重まぶた。みごとな天冠台をつけ、鼻の下や口は小さめにまとめる。耳を2筋に分かれた毛筋が横切るのも美しい。全体に上品で落ち着いた雰囲気の像であるが、見方によっては若干ものうげな顔つきのようにも見える。
頭上面は、頂上に仏面、裏面に大笑面(があると思われるが、前からは見えない)、他は地髪の上に6面、一段高いところに3面を配置する。あるいは正面に3面、左右にそれぞれ3面がセットになり、三角形のような構図でついていると考えるべきか。一段高いところに据えられた3面はそれぞれ髪の束に抱かれるようにして付いている。
さらに後頭部の髪が、少し垂れているようになっていて珍しい形であるが、残念ながら現在の展示方法では見ることはできない。
かなり極端ななで肩で、細身な上にさらに胴で絞る。
脚部は自然な感じで、衣のひだは深くないが、比較的大きな線の間に小さな線をはさんで変化をつけている。
不動明王像、毘沙門天像について
千手観音像の脇に不動明王像、毘沙門天像が置かれるのは、天台宗寺院を中心にある程度よく見られるものである。
像高70センチ台の立像。中央の千手観音像が坐像で像高約1メートル、しかも高い台座に座っているため、これら2像はずいぶん小さく感じる。
一木造だが樹種は異なり、不動明王像は千手観音像と同じホオノキだが、毘沙門天像はトチノキだそうだ。千手観音像に遅れて加えられたと考えられており、鎌倉時代ごろの作とされる。
素朴な作風のようにも感じるが、不動明王像は大きな動作は取らず落ち着いた立ち姿をしており、下半身の衣の様子も自然な動きを見せる。毘沙門天像は両手を失っているのが惜しいが、体をひねりながら上体を迫り出すようにしている体勢がなかなか真に迫る。後ろ側を長く垂らして首や肩を守る兜が頭巾のようにも見えるのも面白い。両像は静と動の対比の妙がある。
その他
重要文化財指定、総合支所での安置にともなって、これらの像はこの地域の活性化の一翼を担うことを期待されているらしい。「千手観音まつり 千の手で繋がる田尻」という催しをこの支所の敷地で行う旨、ポスターが貼られていた。
さらに知りたい時は…
『日本往生極楽記 続本朝往生伝』、岩波文庫、2024年
「院政期彫刻史における中尊寺造像」(『中尊寺の仏教美術』、吉川弘文館、2021年)、武笠朗
『月刊文化財』645、文化庁文化財部、2017年6月
『別冊太陽 みちのくの仏像』、平凡社、2012年10月
『論集 東洋日本美術史と現場』、竹林舎、2012年
『熊野信仰と東北 名宝でたどる祈りの歴史』(展覧会図録)、「熊野信仰と東北展」実行委員会、2006年
『田尻町史』史料編、田尻町、1983年
『田尻町史』上、田尻町、1982年
→ 仏像探訪記/宮城県
