峰定寺の仏像

  収蔵庫は5月と11月に各3日間開扉

住所

京都市左京区花背原地町772



訪問日 

2014年5月4日



 

拝観までの道

峰定寺(峯定寺、ぶじょうじ)は、鞍馬の里の北、花脊峠を越えた大悲山という山の南側の中腹にある。

出町柳駅前から広河原行き京都バス(32系統)で「大悲山口」下車、東へ徒歩約30分。

バスの本数は少なく、行って、適当な時間滞在し、またバスで京都市中に戻ることができる便は限られる。


筆者はゴールデンウィーク中のこの日、午前の早い時間に鞍馬寺を拝観、その後山門を出て右手の「鞍馬」バス停から乗車した。

観光シーズンとあってほぼ満員だったが、何とか乗り込むことができた。途中ハイカーが順に降りて行き、「大悲山口」バス停に着く頃には、乗客は数人になっていた(「鞍馬」から50分~1時間くらいの乗車)。

バス停から峰定寺までは、川沿いの平らな道を歩いて30分くらいだが、お寺の門前にある料理屋で食事を予約するとバス停までの送迎も可というところがあり、迎えに来てもらった。昼食をとったのち峰定寺を拝観し、帰りはバス停まで歩いた。


峰定寺の収蔵庫は開扉日が決まっており、5月上旬と11月上旬の各3日間(年により変動、2014年の5月は3~5日だった)と9月17日のみである。

お寺の方の話では、5月と11月では11月の方が訪問者が多く、落ち着いて拝観したければ5月の方がお勧めということだった。

なお、本堂は雨天時は拝観不可、収蔵庫は小雨くらいまでなら開けるということだ。



拝観料

お寺に入口は一見分かりにくいが、美山荘という旅館の方に進むとある。

入って左側が山門、正面に拝観受付がある。

拝観料は本堂への入山500円、収蔵庫拝観料600円。



お寺や仏像のいわれなど

江戸時代後期の火災のために、寺には古記録などがあまり伝わらないが、『大悲山寺縁起』(1156年、藤原信西が撰述)という史料によって創建の経緯が知られる。

それによると、当寺を開いたのは観空上人西念で、1154年に3間の堂をつくり、千手観音像を安置したという。

さらに鳥羽院が不動明王、二童子、毘沙門天像を奉納し、千手観音、不動、毘沙門天の三尊形式とした。寺の造営には藤原信西の差配によって平清盛があたったといい、仁王門の棟札にも1159年に鳥羽院の発願により信西と清盛が建立したと記されている。


寺を開いた西念は、熊野や大峯山で修行を行った僧で、平信範の日記『兵範記』には「近代無双行者」と記述され、当時名高い修験者であったようだ。鳥羽法皇に召され、授戒の師となり、臨終にも立ち会ったという。


この寺は鳥羽院、藤原信西、平清盛という12世紀なかばに大きな力をもった3人が後ろ盾となってつくられ、創建時の仏像が今日まで伝来するという意味でも大変貴重である。



拝観の環境

仁王門に向かって右側に建つ収蔵庫には、本尊の千手観音像をはじめ、毘沙門天像、不動三尊像、釈迦如来像、仁王像が並び、近くよりよく拝観できる。

仁王像以外はガラスケース中の安置である。



仏像の印象1(千手観音、不動三尊像、毘沙門天像)

千手観音像は像高約30センチの坐像。ビャクダンの一木造。このお寺の本尊である。

『大悲山寺縁起』に、当寺の開基である西念がビャクダンの二尺の千手観音像を安置したとある。立像の2尺は約30センチの坐像となるので、まさに本像と一致し、創建当初からの本尊であることが確かめられる。この寺の創建にかかわった平清盛の造進であろうとする意見もある。

ビャクダンは日本には産しない。しかし、様式から平安時代末期の作と知られるので、輸入した檀木を用いた檀像彫刻である。日本でつくられたことが確実であるビャクダン製の仏像として貴重さ作品ということができる。内ぐりもない一木彫であるが、まったく一本の木から仕上げているのではなく、腰など一部別材をはぎ付けている。

表面は木そのものの色でなく、薄く黄色みがかった着色をして、その上に切り金で文様を描いている。

 

とにかく美しく華やかな像である。平安時代末期の優美な姿で、本当にすばらしい。

バランスのとれた体つき。脇手はあまり大きくは広がらず、やや大きくつくられた顔がその分強調されている。

顔つきは、やさしい中にちょっと物憂げというか沈んだような印象があるようにも思う。美しい眉と伏し目がちの目は横にのび、口やあごは小さめにつくって、当時の平安貴族の好みが顕著である。組んだ足のラインも美しい。

台座、光背、装身具とも当初のものであるのも貴重。光背や装身具は銅製である。


その脇立ちである不動三尊像と毘沙門天像は、本尊造立の後に鳥羽法皇によってつくられ、寄進された像と考えられる。

しかし『大悲山寺縁起』によれば、不動・毘沙門天は1尺3寸、二童子は5寸とあるが、今この寺に伝わるものは、不動・毘沙門天像は50センチ余り、二童子像は約25センチで、大きさが合わない(史料にあるサイズよりも像の方が大きい)。

さらに不動明王像と毘沙門天像では作風に異なりがあり、これらの像を単純に最初からのセットと考えてよいのか、難しいところもある。


不動明王像、毘沙門天像とも彩色像で、ヒノキの割矧ぎ造のようである。

不動明王像は彩色がとてもよく残り、たいへん美しい。腰はある程度太くとりそこから下は次第に細く、衣は浅い彫りながら変化に富んだ姿を見せる。ただし全体的には動きが少なく、大人しい作風で、迫力に欠け、物足りないような印象がある。平安末期という時代にあって、力強さよりも優美さが優先された像ということになろうか。

二童子は、動きはやや硬いが、表情はなかなか豊かで面白い。


一方、毘沙門天像はやや太めにつくり、動きのある体勢である。片足を上げ、両腕ともに胸のあたりまで上げている姿勢は、不安定なものとならず、実によくまとめあげられている。

この像は玉眼が入れられている。この時期の玉眼の仏像は主として奈良仏師の制作によるものであるので、本像もそう考えるべきなのであろうか。

切り金の文様は、肉眼ではわかりにくいが、毘沙門天像と不動三尊像では趣を異にしているという。


釈迦如来像
釈迦如来像


仏像の印象2(仁王像と釈迦如来像)

仁王像は、本来仁王門に安置されていた像。

庫内の左右にどっしりと立つ。ヒノキの寄木造で、像高は270センチくらい。頭部が大きく、それほど筋肉隆々としない姿は鎌倉時代以前の仁王像の特徴がよく出ている。平安時代にさかのぼれる仁王像の代表作といえる。

阿形像の方が体を傾けて、ややコミカルな感じを出す。しかし全体には安定感ある像である。

天衣が腕に巻き付いている造形も面白い。

像内には1163年の造立で、願主は生西と平貞能の母尼、仏師は良元という人物であることが書かれている。残念ながら良元については不詳。平貞能は伊勢平氏の一門である。

 

最後に、釈迦如来像についてである。

像高は50センチ強の立像で、ほぼ1尺6寸、すなわち釈迦の身長とされる1丈6尺の10分の1のスケールでつくられている。毘沙門天像や不動明王像とほぼ同じ像高だが、峰定寺の創建期の像でなく、鎌倉時代の作。ヒノキの寄木造、玉眼。当初からこの寺にあったものかどうか、来歴は謎に包まれている。

小像ながら、非常に魅力的な仏像である。

螺髪は感覚をあけながら丁寧に丸い粒を刻み出す。丸顔で目は釣り上がり気味。目、眉、白毫の距離が近く、それが独特の表情を生んでいるようだ。若々しく、力強く、静かな中に動きが同居する。

なで肩で、衣の襞が執拗といえるくらいに繰り返し刻まれ、腹(胸の下)では下着の紐の結びが見える。

衣の端は波打つ。また、爪を尖らせるなど、宋風の特色が濃い仏像といえる。


本像には多くの納入品があり、その中に書かれている記述から、1199年につくられ、造像の中心となったのは丹波入道とわかる。この丹波入道とは藤原盛実という貴族のことらしい。藤原北家魚名流で、従四位上丹波守となり、1226年に67歳で亡くなったというから、この像をつくったときには40歳のころとなる。

そのほか、納入品には興福寺や笠置寺で活躍した貞慶の名と、重源の周囲の人である見阿弥陀仏、蓮阿弥陀仏といった名前がある。南都復興の重要人物である貞慶と重源の接点がほのみえるということに関しても、本像の意義は非常に深い。


残念ながら、この仏像の作者の名前は書かれていない。作ったのは誰なのだろう。

当時の記録に、重源が東大寺中門仁王像を宋風で造立しようとして快慶と定覚が起用されたとある。このことから、本像の作者として定覚を想定する意見がある。



本堂の拝観

拝観入口で荷物を預け(山門から先は撮影禁止、貴重品だけ持って行く)、懸け造の本堂に向かう。

本堂までは厳しい急坂。杖をつき、「六根清浄」と唱えながらご参拝されている方々とすれ違いながらの坂道である。

本堂の中は拝観できない。お堂の扉口まで行って清々しい風を感じ、下りて山門に戻る。所要時間は35~40分であった。



さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

『聖護院門跡の名宝』(展覧会図録)、龍谷大学 龍谷ミュージアムほか、2015年

『解脱上人貞慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2012年

「京都の北山ー大悲山峰定寺をとりまく宗教世界」(『日本文学風土学会紀事』32)、田中幸江、2008年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

『院政期の仏像』、京都国立博物館、岩波書店、1992年

『檀像』(『日本の美術』253)、井上正、至文堂、1987年6月

『日本仏教美術史研究』、中野玄三、1984年、思文閣出版

『平安時代の彫刻』(展覧会図録)、東京国立博物館、1971年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』5、中央公論美術出版、1970年



仏像探訪記/京都市