法隆寺大宝蔵院の梵天、帝釈天、四天王像

  旧食堂の塑造仏像群

法隆寺食堂
法隆寺食堂

住所

斑鳩町法隆寺山内1ー1

 

 

訪問日 

2014年3月22日、 2019年11月3日

 

 

 

拝観までの道

JR法隆寺駅北口から徒歩(20分くらい)、または駅南口から「法隆寺参道」行き奈良交通バスが出ている。南口にはレンタサイクルのお店もある。

王子や奈良公園方面からバスの便もある。「法隆寺前」で下車。

 

法隆寺ホームページ

 

 

拝観料

西院、夢殿と共通で一般1,500円。

 

 

お寺や仏像のいわれなど

金堂、五重塔のある西院伽藍(さいいんがらん)を出て、聖徳太子をまつる聖霊院を過ぎると、大宝蔵院との間に綱封蔵や食堂など非公開の建物が並ぶ一角がある。

食堂には薬師如来坐像を中心に梵天、帝釈天、四天王像がまつられていた。

これらの像のことは近世史料の中にみえるので、少なくとも江戸時代中期には食堂に安置されていたことがわかるが、奈良時代の資財帳をはじめ古記録にはあらわれず、本来どこのお堂にまつられていたか判然としない。

現在は、薬師如来像はそのまま食堂に安置されている(非公開)が、梵天・帝釈天・四天王像は大宝蔵院に移されている。

 

 

拝観の環境

大宝蔵院の最初の展示室正面にはいわゆる白鳳期を代表する金銅仏である夢違観音像、その先に塑造のふくよかな吉祥天像がそれぞれ独立ケースに入って安置されている。

右側を見ると、梵天、帝釈天、四天王像が一列にならび安置されている。

ガラスケース越しだが、よく拝観することができる。

 

 

仏像の印象1

奈良時代に多く用いられた塑造で、像高は1メートル前後とほぼ揃い、様式的にも相通じると思われ、おそらく6躰一具と思われる。

 

全体に中国風が強い像である。敦煌の石窟にあっても違和感を感じないかもしれない。

塑というのは要するに粘土による彫刻で、水を含むと粘り気が出るが、乾燥すると収縮しまた粘着性もなくなって、ぼろぼろと崩れていく。しかしこの時代の塑造は、通常、木材を芯にして荒土を使い、その上に成型のための細かな土、そして仕上げの表土には砂や紙の繊維を混ぜて収縮率を減らすといった工夫がされている。そういったことすべてが中国伝来なのだろうが、敦煌など西域の気候とは異なり日本では湿潤な夏と乾燥する冬が繰り返されるので、塑造の作品にとってはより厳しい環境であるといえるだろう。

今法隆寺に残る塑造の仏像は、彩色はほぼ落ちて、まっしろな土肌を見せているが、よくぞここまで美しい姿を保って伝来したものだと感動を覚える。

梵天立像
梵天立像

 

仏像の印象2

梵天、帝釈天像は、腰をひねり、鎧の上にぼってりと衣を着ける。両足の間を思いきって深くし、豊かな足の肉付きを強調する。目は切れ長とし、あまり頬は張らず、唇はしっかりと形どっている。澄んだ表情が印象的である。

髪飾りは装飾性に富み、その下の髪の様子も豊かである。

 

靴を履く。しかし、帝釈天像の左足は靴の造形がこわれて、塑の下の木の部分が見えてしまっている。そこを見ると、5本の指が見える。つまり、外からは見えなくなる木組みに足を彫刻し、その上にかぶせるように塑土で靴をつくっているわけである。これはたいそう面白いことである。

東大寺ミュージアムに展示されている弁才天像(もと法華堂安置)の場合は、仕上げ土の内側、つまり中土の段階で顔をはじめ、細部まで彫刻し、その上に仕上げ土を使って改めてまた顔や体を成型していることが分かっているが、それと相通じるような考え方によるものなのかもしれない。

 

四天王像は、すべての像が手を上にあげていない。東大寺戒壇堂の四天王像のうちの2躰が持物をもって手をあげていたり、新薬師寺の十二神将像の何躰かが大きなポーズをとっているのとは正反対である。

持国天は手を前で交差、広目天は左手で巻物を肩のあたりまで上げて持ち、多聞天は右手を腰にあてるなど変化に富み、群像表現として面白いが、奈良時代の他の名品と比較してしまうと、大人しい印象は否めない。

顔つきも、威嚇する表情を誇張的に表現したりはせず、どちらかといえば、やんちゃな若者をおもわせるような顔つきで、魅力的である。

 

これらの造像年代としては、2説ある。相貌や姿勢に感じられる素朴さから円熟の天平最盛期の仏像よりも前につくられたと考えて、奈良時代前半とする説と、鑑真来朝後の新様式を取り入れたもので、平安前期彫刻に向かう時期、すなわち奈良時代後期とするものである。どちらかというと後者の方が優勢のようだ。

 

なお、これらの像はほおの肉付きが左右でやや異なっているという見方がある。言われてみないと分からない程度だが、しかしよく観察するとそうだとわかる(特に梵天、帝釈天)。これは群像表現として、置かれる位置を考えてわざとそのように制作をしたのだという見方がある。とても面白いことと思う。

 

聖霊院
聖霊院

 その他

聖徳太子の命日は2月22日。新暦では1月遅れとして、3月22日に法隆寺では法要を営んでいる。

西院伽藍を出ると、美しい聖霊院(しょうりょういん)という建物の前に出る。このお堂には聖徳太子と4人の王寺の像が厨子に入ってまつられている。3月22日の13時から聖徳太子を偲んでお会式と呼ばれる法要が行われ、また、24日までの3日間、厨子の扉が開かれる(9時から15時くらいまで)。

ただし、残念ながら一般の参拝客からは像はほとんど見えない。

 

 

さらに知りたい時は…

『奈良六大寺大観(補訂版)』3、岩波書店、2000年

『梵天・帝釈天像』(『日本の美術』375)、関根俊一、至文堂、1997年8月

『法隆寺の至宝』3、小学館、1996年

「菩薩像、神将像の意匠形式の展開」(『東大寺と平城京 日本美術全集4』、講談社、1990年)、松田誠一郎

『塑像』(『 日本の美術』255)、西川杏太郎、至文堂、1987年8月

『四天王像』(『日本の美術』240)、猪川和子、至文堂、1986年

「法隆寺食堂梵天・帝釈天・四天王像について」(『美術史』118)、松田誠一郎、1985年4月

『文化財講座 日本の美術』5、第一法規出版、1978年

 

 

仏像探訪記/奈良県